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傑作には二度と出会えず
「それで、何を忘れたいんです?」
向かいに座った男に、覚美が尋ねた。
「ある小説の内容です」
そう前置きして、男は次々に語り始める。
「私、無類の本好きでしてね。蔵書は千冊をゆうに超え、これまでに読んだ本は数千冊にも上ります」
そこまで聞いて、覚美はこの男を本の虫と名付けた。本の虫がなおも鳴く。
「その中で、最高傑作ともいうべき一作が、『運命の門』という小説でしてね。これがまた、面白いんですよ」
「はぁ。そんなに面白いんですか、その本は」
あまり興味なさげに聞く覚美に、本の虫が胸を張る。
「ええ。今世紀、否、有史以来これ以上の小説はないと断言できます」
自信満々に言い切り、ぐいと身を乗り出す本の虫。
「ですので、記憶を消して最初から読み直したいんですよ。あなたも、そう思ったことが一度や二度はあるでしょう?」
「はぁ……私は別に、ありませんねぇ」
いきなり同意を求めてきた本の虫に、曖昧なリアクションを返す覚美。
「そうですか、心揺るがすほどの作品にまだ出会えていないんでしょうねぇ、残念残念」
本の虫に悪気があったかどうかはわからない。が、その言葉尻から、覚美は、『可哀想な奴』と言われた気がした。覚美の心にしわが寄る。
「ところで、忘れるのはその一冊だけでいいんですか?」
「と、言いますと?」
「忘れようと思えば、これまでに読んだ数千冊すべて忘れられます。そうすれば、また数千冊の本を一から楽しめるわけで。運命の門、でしたっけ。その本の他にも面白い本は沢山あったのでは? お代は同じなので、それなら全部忘れた方がお得だと思いません?」
「な、なるほど。確かに他にも魅力的な本はありましたね」
「そうでしょうそうでしょう。それで、どうします?」
三日後。
「いやぁ、先日はありがとうございました。しかしすごいものですね。見事に記憶が消えていました。読む本すべてが新鮮で、もう十冊も読破してしまいましたよ」
「それは何より。薬屋冥利に尽きるというものです」
営業スマイルで世辞を述べた覚美が、そういえばと前置きして話題を変える。
「見つかるといいですね」
「何がです?」
「あなたにとっての最高傑作ですよ。ほら、最初にその一冊の記憶だけを消したいと言っていた」
「あー……そういえばそうだったような」
やや記憶が曖昧なのか、歯切れ悪く言う本の虫。
「読んだ本は数千冊でしたっけ。その中から見つけ出すのはとってもとーっても大変だと思いますけど、頑張ってください」
本の虫の顔色が変わった。目元が歪み、口元が曲がり、そわそわとあちこちへ視線を巡らせる。
そこへ、覚美がさらなる追い討ち。
「あ、ひょっとしたらこの三日で読んだ十冊の中に例の最高傑作が含まれてたりして! なーんて」
そこでようやく、本の虫がか細い鳴き声をあげる。
「……あの、すみません」
「なんです?」
「その、最高傑作のタイトル、何と言いましたっけ」
「さぁ、なんでしたっけ。そもそも忘れたことについて聞かれても答えられない契約なので」
覚美はテーブルに肘をついて手を組むと、その上に顎を乗せた。その口元に、悪い魔女が浮かべるような邪な笑みが浮かぶ。
「まぁ頑張ってください。あなたにとって最高傑作だった、タイトルも内容も一切わからない小説が、もう一度見つかるといいですね!」
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