貴き人を忘れるなかれ

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貴き人を忘れるなかれ

「それで、あなたは何を忘れたいんですか?」  向かいに座る男に、覚美が尋ねた。整った顔立ちに綺麗な身だしなみ、いわゆるイケメンの部類だが、表情に深い陰がある。覚美はと名付けていた。 「死んだ、恋人のことを」  あはれが呟くように答え、覚美は客前にもかかわらず露骨に眉を顰める。 「詳しく、お聞きしても?」 「話さなければいけませんか?」 「無理に、とは言いませんけど」  長いため息をついた後、あはれがふっと息を吐く。 「殺されたんです、ストーカーに。見ず知らずの男に、何度も刺されて」  あはれが堰を切ったように滔々と語り出す。 「犯人は精神疾患とやらで無罪になりました。理不尽ですよね。罪も償わず、今ものうのうと生きている。できるのなら殺してやりたい」  あはれの背後に陽炎が立ち上ったと錯覚するほど、その言葉には怒りと殺意がこもっている。 「でも、彼女が今際の際に言ったんです。ダメだよと。どんなに辛くても、酷いことをしちゃダメだよと。私が悲しくなるからと。そう言い残して、彼女は俺の目の前で死にました。よほど酷い顔をしていたんでしょうね、あのときの私は」  そこで、あはれは顔を俯かせる。 「彼女には二度と会えない。触れることも抱きしめることもできない」  テーブルの上に置かれた手が、ギュッと握られる。 「後を追うこともできない。彼女を殺したあの男がまだ生きているのに、俺が自ら命を断つことなんてできない」  ぎりと、歯を噛み鳴らす音がする。 「けれど復讐もできない。彼女はそれを望まなかった。だから」  大きく息を吐き、やや紅潮した顔を覚美に向ける。 「彼女の存在そのものを忘れたい。そうして、この生き地獄から抜け出して楽になりたいんです」  言い切って、あはれは覚美の目をまっすぐに見つめた。  その瞳に宿るもの、その正体を覚美は見抜く。 「本当にそれでいいんですか?」 「ええ、そうです」  即答したあはれが、自嘲とも苦笑ともとれる笑みを浮かべる。 「ひょっとして、『彼女はきっと、それでも忘れてほしくない』なんて月並みの言葉を?」  覚美は、仏頂面のままわずかも表情を崩さない。 「いえ、そうじゃありません――忘れたいことは本当にそれでいいんですか?」 「いいんです」  あはれの答えは変わらない。覚美がこれ以上何を言っても、それはきっと変わらない。  悟った覚美が、折れた。 「それでは――契約書を」 「仇を討ちました」  三日後、あはれは案内された椅子に座るなり、開口一番にそう告げた。 「なんとかうまくいきましたよ。これで彼女も浮かばれたでしょう」  復讐を果たしたあはれに、もはや憐れな表情など微塵もない。顔いっぱいに安堵と喜びを浮かべている。  対する覚美は醜悪な物を蔑むような目で、あはれを見つめている。 「彼女のことは、忘れていないんですね」 「当たり前じゃないですか。なぜそんなことを聞くんです?」  嘘偽りなく問いの意味がわからないといった風に、あはれが覚美に聞き返す。 「別に。ただ、あなたの恋人、きっと悲しんでいますよ、とても怒っているとも思います」 「まさか、喜んでくれているはずですよ。きっと笑顔で迎えてくれます」  満面の笑みを浮かべて言うあはれ。その言葉に、その意味するところに胸を刺され、覚美の顔が悲嘆に歪む。 「それでは、ありがとうございました――さようなら」  丁寧にお辞儀して、椅子を立ちドアへ向かうあはれ。 「ご利用ありがとうございました」  覚美がその背に、一切の感情がこもっていない言葉をかける。あはれはドアの前で振り向き、再度お辞儀してから店を出ていった。 「――馬鹿な人」  ドアベルの乾いた音に、こぼれた呟きが混ざり合った。
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