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ちゃんと名前で呼んだことはない。もちろん知ってたけど、兄ちゃんは兄ちゃんだから。けど机の上に置いたままのキャップを見つめ俺は気付いた。
「この RUN って、兄ちゃんの名前だったのかな」
夜8時。母親が俺の部屋を叩いた。
「嵐? 蘭真くん来てるわよ。虫取りにいく約束してるの?」
まさか本当に迎えに来るとは思ってなかった。
受験生なんだから遊んでばっかいないで勉強もしなさい、と小言を言われながら兄ちゃんと家を出た。
「嵐、進路決まってるのか?」
やけに年季の入った虫取り網を持っている兄ちゃんが優しい声で尋ねてくる。
「いや、何も……」
「昆虫博士じゃないのか?」
クスクスと笑われる。生憎昆虫博士になれるほど俺の頭は良くなかった。
「昆虫よりも俺は兄ちゃんのゼリーの方が好きだったみたい」
大真面目に答えたけど余計に笑われた。
「あははは! ゼリーに群がってるのは昆虫じゃなくて嵐ってことか? うまいこと言うなぁ」
そんなシャレを言ったつもりは微塵もない。俺より僅かに背の低い兄ちゃんを見下ろし、俺はたまらず聞いていた。
「身長いくつなの?」
俺を見上げる兄ちゃんが生意気だなって片眉を釣り上げる。
「170だけど、チビって言いたいわけ?」
「言ってないじゃん」
「そういう嵐はいくつなんだよ」
「179」
「屈辱」
肩を竦めて顔を背ける兄ちゃんに思わず笑みが零れる。
「俺、幼稚園児だったから兄ちゃんの身長まで分かんないよ」
あの頃は充分デカかったよと言いかけてやめた。これじゃ火に油だ。
「しっかし面倒みてたガキがいつの間にかこんなデカくなってんだもんなぁ。俺も歳とるわけだよ」
でも兄ちゃんは全然おっさんに見えない。ぶっちゃけパティシエにも見えない。どっちかというと、サーファー。
「やけに日焼けしてるね」
色黒のパティシエなんて見たことない。
「あぁ、この前海に行ったから」
やっぱりサーファーなの?
「サーフィン?」
「ん? いや、釣り」
そっちか。
「釣りとかするんだ」
「嵐はしない?」
「しない」
「お前今、何が好きなんだ?」
そんなつもりで聞いたわけじゃないんだろうけど、一瞬で頭の中は兄ちゃん一色になった。
俺の進路を気にしてくれてるだけ。一緒に虫取りをしながら進路の相談に乗ってくれるだけ。
分かってる。でも俺はバカ正直に答えてしまったんだ。
「兄ちゃん……、かな」
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