31 熱の根源

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31 熱の根源

「父……今生きている父みたいな男は、オメガ性の、ましてや男と番にはならない筈だったんだ。あの人は『大瀬良』本家の長男でアルファ性の男だからな」  咲也は親指で唇に触れ、軽く目を伏せた。 「でも二人は番になった」  指を外し、自由になった唇で紡いでいく。 「ああ見えてあの人は、もう亡くなった父さんを愛していた。晩年は弱った彼のためにこの屋敷を建てて、すべての手を尽くしたり、していた」  不意に、初めてこの邸宅を訪れた雨の夜を思い出す。  カレーを運んできた夜のことだ。厳かな屋敷を前に和馬は圧倒されていた。陽光降り注ぐ光の元で見る此処はとても活力に満ち溢れた屋敷なのに、どうしてかあの夜、和馬は思ったのだ。  まるで墓標みたいだと。 「死んだ父さんのことはあまり覚えていない。今生きている父……和馬が見たあの人と俺も、あまり思い出はないし、正直な話、和馬に話せることは殆どない」 「……あまり思い出はないんですか」 「うん。あの人にとって恋人の死は耐え難いものだったんだろう。俺にまで心を遣る余裕がなかったっていう、それだけの話」 「そう、ですか」 「そんなもんだよ。オメガ性の父が亡くなったのも、俺を産んだことで体が弱ったせいだし。あの人もどうしたらいいか分からなかったんだろ」  咲也は亡くなった父親を『父さん』、生きている父親を『父』『あの人』と分けて呼んでいる。それが無意識なのか意識的なのか和馬には分からない。  ……愛情に容量があるとして。  咲也の『父』は、目の前で消えようとする愛する人の火を灯し続けることにその愛の全てを使い切ってしまったのかもしれない。  消えようとする炎を燃え上がらせることに必死で、暗闇の隅にいる咲也にまで火を分け与えられなかったのかもしれない。  愛情は必ずしも血の繋がりで生まれるものでもないし、全ての人間に内在するものでもない。咲也の父が咲也との関係を『冷たい』仲にしかできなかった理由は、和馬が知り尽くせるものではない。  分からない。だとしても。 「でも先輩は、寂しかったですね」  暗闇の隅にいて、光に届かない夜の冷たさを和馬は知っている。  どれだけ仕方のないことだと理解していても、寂しさは変わらない。 「先輩は強いですね」  それを耐え抜いた咲也は強いのだ。  和馬は振り返って想像してみる。皆川家のあの子が和馬を恐れていた理由だ。  子供の頃の和馬には気付けなかったし、きっとあの子自身も自分の心を理解していなかったのかもしれない。でも彼女は恐れていた。きっとそれは、あの子の父母のもつ愛情を少しでも和馬が求めてしまったからではないか。  求めてしまっていたのだ。ケーキを見て心から喜んでしまった。出来る限り良い子でいて気に入られようとした。どこかで求めてしまっていた。それが『奪う』こととは知らずに。 「僕は、関心を求めてしまったから」  しかし咲也は求めなかった。 「先輩はすごいですね」  たった一人で耐え抜いたのだ。  誰が何と言おうと、和馬は咲也を強いと思える。そうでなければなぜ咲也はここに残っている。今この屋敷で生きている咲也自身がそれを証明している。  目の前の彼の美しさは、その強さからも得たものだった。和馬はどこか惚けるような心地で呟いた。 「咲也先輩は、強いですね」 「……父も今は、妻と娘がいる」  咲也は数秒沈黙した。やがて、そこはかとなく幼い表情に戻って告げる。  和馬は深く微笑んで「はい」と頷いた。 「だから、過去の話なんだ」 「その奥さんが、片桐いずみさんですか」 「うん」 「咲也先輩は僕のために無理をしましたか?」  咲也がゆっくりと瞬きをした。  あの時橘は言っていた。 「やむを得ず片桐いずみさんを呼んだんですか?」  だが咲也のオメガ性の知り合いは他にもいるはず。けれど『片桐いずみ』さんを呼んだ。  彼女に頼ったのだ。  咲也は無表情でいる。その表情に硬い雰囲気はなく、むしろ柔らかだ。和馬は続けて、 「変なこと言ってもいいですか」  と訊いた。 「え」 「僕は……」  咲也が少し驚いたような顔をしていた。その表情を慎重に、溢さないように、見つめつつも考える。  愛情は血の繋がりで無条件に発生するものでもないし、無限に溢れ出るものでもない。  けれど時間をかけて育むことはできるはずだと。 「僕は、咲也先輩が、片桐いずみさんのことを信頼しているから僕のところに呼んでくれたと思ったんです。やむを得ず、ではなくて……咲也先輩がそうしたのだと」  咲也と彼らをよく知る者たちからすれば見当違いなのだろう。ずっと咲也の傍にいて、その歴史を見ていた橘や屋敷の人間はそうは思っていない。  あくまで和馬の印象だった。咲也と『片桐いずみ』さんが話しているところを聞いたのは夢うつつだった一瞬。  それでも和馬はそう思えた。  和馬はもう、自分が咲也に大切にされていることを知っている。だからこそ思える。  強欲な思いつきで、浅はかな戯言かもしれない。怒られても仕方がない。  ……すると、突然、彼の周りの夜が揺らぐ。  咲也が笑ったのだ。 「ははっ」  彼は声に出して楽しそうに笑っていた。 「うん」  弾ける笑い声の後、あたたかな「和馬」が響く。  咲也はその緑かかった瞳に、どこから集めたのかたくさんの光を敷き詰めて微笑んだ。 「なぁ、和馬は俺を強いって言ったけど、和馬だってやっぱり強いんだよ」  和馬の問いに関する回答とは違った。それでもよかった。今、咲也が心にしていることを口に出してくれる方が大事だから。 「和馬は求めたんだろ。俺は求められなかった。それだけだ。でも和馬が言うことだってきっと間違っていない。俺たちは強い。俺たちがここにいる、それが証だ」  言葉が糸だとするならば、今、二人のそれぞれの思いが繋がれたような気がした。それは和馬が内心にした言葉と、咲也が声にした言葉だ。  此処にいる。それが証だと。 「呼ぼうか」  咲也は若々しく、少年みたいな笑顔を浮かべていた。 「和馬が直接、ありがとうを伝えて」  ふと、前髪が邪魔だと思った。  眼鏡が邪魔だ。今、和馬を覆うものが邪魔だった。これでは咲也をきちんと見られない。どうしよう。  自分から咲也に語りかけたことなのに、いざこうした反応を見せられると和馬は焦った。もっと鮮明な視界で彼と向き合いたいと思ってしまったから。  そうしてメガネを外そうと腕を動かした時だった。 「あっ」  ――パリンッ  乾いた甲高い破裂音が夜空に響いていく。  そして音は過去の津波を引き連れて一瞬で和馬に襲いかかった。  夜の深みが急激に増して目の前が真っ暗になる。  腕に当たったグラスが落ちて割れたのだ。  わかっている。しかし状況を、理解していても体が動かない。  この音の後に起こるのは決まっているから。  グラスを……皿を割ってしまった。  怒られる――…… 「——怪我してねぇ?」  ——遠退いたはずの世界から、その声が心に触れてくる。  俯いた真っ暗な視界。そこに、見慣れた綺麗な手が入り込んできた。 「和馬? 大丈夫?」  和馬は呆然とした心地で顔を上げた。  そこには、暗闇なんかじゃない青い夜を背景にして咲也が立っている。  咲也はしゃがみ込んで、和馬の顔を覗き込むようにした。 「グラスが割れたんだな。破片、当たってない?」  咲也が首を傾げて、もう一度聞く。 「和馬?」  和馬はようやっと乾いた唇を開き、小さく口にした。 「当たって、ないです」 「そっか」 「あの、僕、今皿を……グラスを、割ったんです」 「らしいね」  咲也は軽やかに腰をあげ、足でザッと割れた破片を退けた。が、また直ぐに「あっ」と腰を落として、 「ちょっと待て」 「え」 「ここんとこ怪我してる」  肌には触れずに、足首のところを示してきた。  それはたった今出来た傷だ。確かに微かに血が滲んでいる。きっと咲也が見落としていたら和馬は気付いていない。  そんな小さな、傷を。  見つけてくれた。 「……何固まってんの?」  施設では皿を割ったら怒声と拳が降ってきた。割れた破片で引っ掻いた傷よりも殴られた箇所が痛んで、今も一瞬でその恐怖が蘇った。  でもこの夜和馬に降ってきたのは、優しい声だけ。咲也は触れないで、ただ傍にいてくれる。 「和馬?」  不意に記憶が鮮明になった。鮮やかな光の花々……皆川家に居た頃、一人で花火を見ていたとき、怪我をしたことを誰にも言えなかった。それよりも花火の音がうるさくて、視界を覆いつくさんとする光たちが眩しくて、どこにも逃げられずに、胸が張り裂けそうだった。  誰もあの傷には気付いてくれなかった。  でも、先輩とは。 「……なぁ?」 「先輩、あの時」  和馬は強い声で切り出した。 「僕の傷に気付いて、消毒液を渡してくれてありがとうございました」  あれも誰も気付いてくれなかった傷だ。  体育の先生や、和馬自身でさえ知らなかった痛み。 「僕を倉庫で見つけてくれてありがとうございました」  凄まじい雨の音で満ちる真っ暗な倉庫の中。和馬は声すら出していなかったのに、咲也が見つけて、光で充溢する安全な場所に運んでくれた。 「昼休みの一時間をくれて……」  咲也が自分だけの空間にしていたのに、その場所を分けてくれた。 「お弁当を作ってくれたのも」  記憶の限りでは初めてもらった『お弁当』だった。結局まともに食べられなかったけれど、またこうして、何度も失敗しながらも手作りをくれた。 「僕の眼鏡に気付いていたのに、何も言わないでくれてありがとうございました」  幼い頃に膝を抱えて玩具の眼鏡越しに見た鮮やかすぎる花火は、和馬を追い詰めるばかりだった。  けれど咲也と共にこの眼鏡越しに見た小さな花火は、今までに見たどんな光よりも綺麗に思えた。  和馬は目一杯に笑う。 「先輩は謝ってばかりいるけど、僕は……感謝を伝えることしかできない」  咲也が謝るたびにろくなことを返せなかったのは、ずっとこの思いがあったから。  『ごめん』と返すたびに、どうしても感謝しかないから口を噤む。それだけだったのだ。 「僕たち、本当に変ですね」  おかしな関係なんだろう。出会いから言葉のみで表せば、確かに悲惨かもしれない。  自分でも分かっている。雨の日の出会いに見た冷たい視線も、いじめの発端も、単なる事実だと。  だから今、二人が同じテラスにいて同じ夜風を浴び同じ月光に照らされていることを誰も理解できないかもしれない。  間違っていると言われるのかもしれない。離れるべきだとも。  それでも、見つけたのだ。  ……咲也は和馬を見つけてくれた。  そして和馬は——、自分の恋を見つけた。 「咲也先輩、ありがとうございます」  足には新しい傷がある。それは何の盾もない裸だからこそ生まれた傷。  けれど痛いとは思えなかった。咲也が見つけてくれたその瞬間に、魔法みたいに治癒してしまったみたい。  和馬はまたしても自分の胸がブワリと熱くなるのを感じる。その熱をいつも認めていても、根源を辿りはしなかった。  今なら見える。今ならわかる。  そこには恋があること。 「……うん」  咲也はもう『ごめん』とは言わなかった。和馬は嬉しくなって、子供みたいに歯を見せて笑った。  宙にあった咲也の手が力が抜けたように和馬の膝に降りてくる。咲也の冷たくて気持ちのいい手の甲に、和馬は自分の手のひらを重ねる。そうして分かった。和馬の手は、びっくりするほど熱かった。まるで咲也の手を溶かしてしまうくらい。  思わずまたこぼすように笑う。すると咲也の手が反転して、力を込められた。  咲也は何も言わずに手を握ってくれた。和馬もそれに同じだけの力を返す。  二人の間に夜風が流れる。  特別な光は何もないけれど、和馬はこの夜がちっとも怖くなかった。  ここに二人、裸足の心で手を繋いでいるから。
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