1 僕が失踪してから七年目

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1 僕が失踪してから七年目

「うわー! ついに……い、嫌だー!」  従業員用の休憩室の扉に手を掛けたようとしたその瞬間、中から若い女性の絶叫が聞こえてきた。同時にシフトを間違っていたと気付き、空(そら)は既のところで立ち止まる。そうだった。今日は早番ではなく遅番の担当なのだ。ここ十日ほど早番の連勤だったせいで予定を間違えてしまった。仕方なく踵を返そうとしたが、再度同僚の声が空の意識を刺激する。 「咲也(さくや)の熱愛報道、事務所がノーコメント出してる! 今までのは否定してたのに、今回はノーコメント炸裂してる! ってことは事実じゃん! うわーんっ」  「ノーコメントって、炸裂するものなのか?」続いて男の声がした。同僚の一人だ。  「アイドルだっけ? モデルの子だっけ」同じく従業員であり、空の働く定食屋の店長の妻がとぼけた声を出した。 「アイドルじゃないですモデルです、俳優もしてますー。仲根さん、咲也を知らないんですか? こんなに一世を風靡しまくってるのに? 22歳でディオーラのアドバイザーですよ!? 23歳でカンヌ行ってますよ!? まだ25歳でこの経歴! 強すぎるぅ」 「若い子はみーんな同じに見えて難しいわ」 「咲也って、アルファのあのイケメンだよな。んじゃ、お相手はオメガか」  シフトを間違えたとはいえ三人に挨拶くらいして帰ってもよかったし、または声をかけずに戻ってもいい。  だがそのどちらもできないのは、空の思考がすっかり麻痺していたからだ。  防音性の低い扉なので会話は十二分に聞こえてくる。一方で、耳には届いているのにその内容を三割でも理解できない。空白の九割に巣食われて、空は微動だにできず、頸の傷跡がひりつくのを感じた。  そうこうしている内に、軽やかな男女たちの話題は、有名人の恋愛事情という遥か遠方のネタから極間近へと接近している。 「でもさ、私たちには一世風靡中の咲也さんとやらにも負けず劣らずのとっておきのイケメン男子がいるじゃない」 「あぁ、香月(かづき)さん?」 「そうですね、我らが香月空くん!」  唐突に自分の名前を呼ばれて、空の肩はビクッと震えた。先刻の会話も衝撃的なもので体の自由を奪われたが、次の話題は先程と違って体の硬直を解いた。 「香月くん、ほんと格好いいよな。顔ちっちぇし。この辺で一番イケメンなんじゃないか?」 「あの子は元々外から来た子だから。親切で思い遣りもあって、良い子よねぇ。まいちゃんなんか特に、香月くんのこと好いちゃって」 「だって、空くんかっこいいじゃないですか。気を抜くとあのキランキランした目に見惚れちゃう。うちのお客さんなんて、空くんの顔面眺めに来てるようなもんですよ。ていうか私はそうです。空くんに会えるから出勤してる。名前もかっこいい。香月空。生まれた時からイケメンが確定してる名前! 名が体を表してる!」 「確かに、香月さんには浮世離れした美しさがある。ハンガリー人の血が混じってるって、本当なんかな」 「にしては黒髪黒目だけどね。空くんほんと綺麗で、可愛い。毛穴とかゼロだし、肌もツヤツヤで真っ白で、ぼーっとしてる横顔なんて、赤ちゃんみたい……でもかっこいいの。オメガの子はみんなそうなのかなぁ」 「確かにあの人頻繁に上の空やってるよな」 「そこも好き!」  すると仲根が割り込むように、「けどあの子番がいるじゃない」と言った。男性従業員は驚いて、 「えっ、そうなんすか!?」 「はーい、知ってまーす……」 「アルファの人っすか!?」  落胆する同僚女性の声と、昂揚を纏った男の声。空は普段は髪で隠れている頸のあたりを指の腹でそっと撫でた。 「アルファに決まってるでしょ。確かお相手は亡くなったって聞いたけど」 「え!?」 「空くん……悲しい……」 「天涯孤独の未亡人ってことすか!?」 「別に、天涯孤独ではないでしょ」 「いつ亡くなったか、仲根さん知ってます?」 「ここに来る前だから、二、三年前くらいじゃない?」 「誰から聞いたんですか?」 「本人が言ってたらしいけど……でも、空くんって謎多いわよね」  空は扉に寄りかかる形で半身を預ける。店長の妻である仲根は、続けて語った。 「お客さんから写真お願いされても頑なに断るじゃない。あのくらいの歳の男の子……24歳? だっけ。そんな子が可愛い女の子からツーショットお願いされたら断らないでしょ。まだ若いのに、ちっとも浮ついてないのが不思議だし、写真に映ることを避けてるんじゃないかしら。テレビの取材が来るとまるで前科者のように隠れるのも変よね。ほら、昨日とかも『キャット!』のロケが来るや否や、速攻で逃げたじゃない。それに、額の辺りに傷あるでしょ。体にも傷があるって聞くわよ。抗争の痕かしら」 「俺、香月さんが偽名使ってるって酔った店長から聞きました」 「らしいわね……あの人酒やめた方がいいわ」 「えっえっ」 「抗争から逃げてきたんすかね」 「こうなってくると年齢も偽ってるかも。本当は17歳よ」 「説ある!」 「間違い無いっすわ」  (えっと……)大幅に訂正がある。  香月空とは、二つ目の名前だ。生まれた時は別の名前だったが、居住地を移した時にテキトウに名前を付けた。つまり男性社員の情報が正しく、これは完全なる偽名だ。本名とは無関係であり、名は体を表さない。  説はない。17歳ではなく、年齢は申告通り24歳だ。勿論ハンガリーとも無関係で、純日本人だ。抗争を起こしたことも関わったこともない。なぜそうした噂がまことしやかに流れているのか定かでないし、こうなってくるともはや噂の処理は手に負えない。  また、『番』に関しても訂正と注釈が必要だった。  空がオメガ性でアルファの番が居たのは事実だ。だが『お相手』は死んでいない。本人が発言したと証言しているが、空は『死んだ』など一言も言っていなかった。考えてみると『もうここには居ないんです』と漏らした覚えがあるので、角度によっては死去の婉曲と捉えられても仕方のない言い方だったかもしれない。うん、反省。  むしろ『死んだ』のは空の方だ。七年前に。
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