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ふと明珍氏の方を見る。やはり動いていない。私は男の横を通って明珍氏のところへ行った。肩を叩き、名前を呼ぶが動かない。鼻の前に手を持っていくと呼吸をしているのがわかってホッとする。バイタルチェックせねば、と私は持ってきていた訪問鞄を取ろうとした。中に手首に巻くタイプの血圧計が入っている。
鞄を取ろうとしたところで、男の表情に目が留まる。なんだか知っている顔のように見えた。近寄ってみると、昔働いていた職場の上司の男だった。
「お前……」
私が声をかけると、元上司の男はこちらをぎょろりとした目で見てきた。
「私を覚えているか?」
私は名前を名乗った。元上司は「は?」と言った。どうやら覚えていないようだ。私は明珍氏の後ろにある台所を振り返り、シンクに置かれていたキッチン用鋏を手に取った。元上司の男は顔を醜く引き攣らせた。
初めて入社したその職場は、もう何の会社だったのか全く思い出せないが、とにかく上司が常に怒っていたのだけは覚えている。業務量が異常なほど多く、少しのミスでも他の社員が聞いている前で怒鳴られた。家に帰れず、給料は少ないのに仕事の責任ばかりが重く、上司のミスも私のミスにされ、ひたすら罵倒される日々に私の身体はおかしくなってしまった。
目の前にぐちゃぐちゃの赤黒い物が、赤黒い液体をダラダラと流している。何だろうこれは、と顔を上げると、どうやらそれは元上司の左脛であった。私の手に握られた鋏が血を滴らせている。元上司は失禁していた。尿の香ばしい匂いがする。血塗れの脛からその顔に視線を移すと、そこにはもう元上司はいなかった。
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