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一度台所で手を洗い、血を流した。タオルをお借りして手を拭くと、私は訪問鞄から血圧計を取り出した。明珍氏の左手首に巻き、スイッチを押す。ぶーんという音と共に、明珍氏の左手首が締め付けられていく。
ふと横たわる男の方を見ると、男は泣いていた。鼻から鼻水が流れている。動こうとして、立ち上がれず、身体の痛みに人の発するものとは思えない声を上げていた。
「孫がかわいいなんて」
突然明珍氏の声が聞こえたので、ハッとして私は明珍氏の顔を見た。しかし、明珍氏は目を閉じて、微かに息をしているだけだ。
「そんなことを言ってみたかったよ」
口は動いていないのに、明珍氏の声は聞こえる。何だこれ。
「高坂さんが、ああ、お隣さんなんだが、孫がかわいくて仕方がないって、嬉しそうに話していてねえ。普通はそういうもんなんだろうけど、私のとこは違うね」
明珍氏の声が、顔が曇る。
「あれはひとでなしだよ」
ああ、そういえばそんな話をしてくれたことがあったっけ。私はもう今は壊されてしまった椅子に座って、よく明珍氏の話を聞いていた。
「家族はいいって、それはいい家族だから言えることだね。私の家族は悪い家族だ。だから、老いぼれたからといって世話になんかなるもんか。まあ、向こうも世話してやろうなんて思わんだろうがね」
そのときの明珍氏の顔はなんとも寂しそうだったのを思い出す。
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