6人が本棚に入れています
本棚に追加
家に帰ると、玄関前に母が立っていた。
帰りの遅い俺を、外で待っていたのだろう。エプロン姿の母は額から汗を流しながらこちらを見て、すごく驚いた顔をした。
暑い中を歩き回ったせいで、ゾンビのようになっていた俺を見て驚いたわけではない。その背に背負われたギターを見て、目を見開いたのだ。
「あなた、それは……」
「兄貴の、遺品」
そう言うと、母は「そう」と小さく頷いて、
「お父さんにばれないようにね」
と告げる。
門扉を閉じると木陰で蝉が死んでいるのを見つけた。
ひっくり返ってぴくりとも動かない。夏が盛りとばかりに喚きたてていた騒がしさが嘘のよう。この躯は、静かで、空虚で、どこか最後に見た兄に似ている。
そうだ、思い返してみれば、彼は蝉のような人だった。
うるさく、やかましく、少し疎まれていて。
けれど俺の人生にとっては、かかせない人だった。
たとえこの世から蝉がいなくなったとして、喜ぶ人もきっといるだろうが、その年の夏はひどく退屈するのだろう。
蝉の声が聞こえない夏なんて、想像したくもない。
「母さん」
「なに?」
「寂しいね」
俺の言葉に母は答えなかった。
小さく背中を丸めた母は、ふるふると肩を震わせて家の中に駆け込んだ。
俺はもう一度、地べたに転がる蝉を見る。
きっとこれから夏の終わりがくるたびに思い出すのだろう。
俺の夏で、蝉で、憧れだった兄の事を。
最初のコメントを投稿しよう!