夏を悼む

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 兄に連れられて来たのは駅前のコインロッカーだった。 「手、出して」  優しく言われて両手を差し出すと、その上にぽとんとグリーンのタグが付いた鍵が落とされる。105のロッカーの鍵。 「何、これ」 「まあまあ、まあまあ」  にこにことロッカーを指差す兄に戸惑いながらも、俺は105のロッカーを探す。端の方にある、縦長の広いロッカーだった。ゆっくりと、慎重に扉を開けると、そこにはケースに入ったギターと、使い古しの音楽プレーヤー、そして見覚えのあるCDが収められていた。 「……これ」 「好きだったろ、音楽。ギターも自分のが欲しいって言ってたし。……俺のお古になっちまうけど、やるよ」  驚いた。兄が住んでいたらしい東京のマンションにも行ったが、まったく生活感のない部屋だった。生前の兄は音楽が好きだったのに、そんなことを一切感じさせないような、伽藍とした部屋に背筋が凍ったものだ。  でも、こんなところにあったのか。 「そんな事を言われても、困る」  口をついて出たのはそんな言葉だった。  そう、困るのだ。  俺はたしかに音楽が好きだ。独学だけれど、ギターも弾ける。本当は吹奏楽もやってみたいし、音楽の勉強もしたい。  けれど、そんな趣味にかまける時間を持つことを、俺は許されていないのだ。  父は学歴がすべてというような人だった。自分があまりいい所の大学を出ていないからか、学歴コンプレックスのようなものを拗らせている。  俺も、兄も、学校のテストの点数は学力テストから日々の小テストに至るまで逐一報告しなければならなかった。部活や友人と遊びに行く事は禁じられ、寝食以外の時間をすべて自主学習に充てなければならなかった。  そんな日々にいち早く否を唱えたのが兄だった。  中学受験に態と失敗した兄は、地元の中学に入学して勝手に部活にも入った。外面のいい父親が、学校側に異議を申し立てたりはしないのを良いことに好き勝手していた。補導されるギリギリの時刻まで家に帰って来ることはなかった。  代わりに兄は家での居場所を失った。  彼はいつだって陽気に家族に話しかけたが、父はもちろん、父に絶対服従をしている母も、彼の会話に返事を返す事はなくなったのだ。俺ですら、父親の見ている所では口をきくことをしなかった。  俺は、兄のようにはできなかった。  父の言う通りに中学受験し、そのまま系列の高校に入学し、こうして大学受験に備えて毎日夏期講習に通っている。部活も、趣味にも、費やす時間は与えられていない。  俺はあまり頭の出来がよくないらしい。必死に勉強しても、父の求める大学に届くか怪しい。  もし失敗したら、俺は、どうなるのだろう。そんな事が、ただただ恐ろしい。 「別に要らなかったら捨ててもいいぜ」 「え……」 「……そんな顔しなさんなって。お前の気持ちはよくわかるよ。あの家にこれは持って帰れないよな。だから、捨ててもいい。捨ててもいいけど、お前の『好き』って気持ちは捨てないでくれな」  兄は優しくほほ笑んでいた。 「俺は嬉しかったんだよ。お前が、俺と同じものを好きになってくれて」  透けた長い指が、俺の頬を掠めたような気がする。諦めたように離れていく兄の手が惜しい。 「お前はまだ子どもだから、あんな人たちでも保護者が必要だ。でも、これから先の全部をあの人たちの言う通りにする必要なんてない。大人になったら、好きな事を好きなだけすればいいさ」 「簡単に言うじゃんか。先のことなんて、わからないのに」  大人だって所詮子どもの延長線上にあるものじゃないか。  親の言う事に逆らえない自分が、大人になったところで、親に逆らえない大人になるだけのような気がする。 「先のわからないことだから言うんだよ。少なくとも、今よりは希望がもてる」 「どの口が言う……」 「わはは、本当にな」 「無責任に笑いやがって……」  苛立った心地のまま兄の姿を探すが、傍らにいたはずの派手なアロハシャツは忽然と姿を消していた。慌てて周囲を見渡すが、炎天下の中だらだらと道行く人がいるばかりで、あの陽気な男は見当たらない。  唐突に現れた幽霊は、夢かまぼろしのように夏の熱気の中に溶けて消えた。
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