夏を悼む

3/3
前へ
/3ページ
次へ
 家に帰ると、玄関前に母が立っていた。  帰りの遅い俺を、外で待っていたのだろう。エプロン姿の母は額から汗を流しながらこちらを見て、すごく驚いた顔をした。  暑い中を歩き回ったせいで、ゾンビのようになっていた俺を見て驚いたわけではない。その背に背負われたギターを見て、目を見開いたのだ。 「あなた、それは……」 「兄貴の、遺品」  そう言うと、母は「そう」と小さく頷いて、 「お父さんにばれないようにね」  と告げる。  門扉を閉じると木陰で蝉が死んでいるのを見つけた。  ひっくり返ってぴくりとも動かない。夏が盛りとばかりに喚きたてていた騒がしさが嘘のよう。この躯は、静かで、空虚で、どこか最後に見た兄に似ている。  そうだ、思い返してみれば、彼は蝉のような人だった。  うるさく、やかましく、少し疎まれていて。  けれど俺の人生にとっては、かかせない人だった。  たとえこの世から蝉がいなくなったとして、喜ぶ人もきっといるだろうが、その年の夏はひどく退屈するのだろう。  蝉の声が聞こえない夏なんて、想像したくもない。 「母さん」 「なに?」 「寂しいね」  俺の言葉に母は答えなかった。  小さく背中を丸めた母は、ふるふると肩を震わせて家の中に駆け込んだ。  俺はもう一度、地べたに転がる蝉を見る。  きっとこれから夏の終わりがくるたびに思い出すのだろう。  俺の夏で、蝉で、憧れだった兄の事を。
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6人が本棚に入れています
本棚に追加