夏を悼む

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夏を悼む

 夏期講習からの帰ってくると、家の前に死んだ兄が立っていた。 「…………お盆はもう終わったけど」 「死んだ兄貴を前にその台詞か~! さっすが俺の弟!」  陽気なオレンジ色のアロハシャツを着た兄がケタケタと笑う。ジージーと鳴くセミの声と混じって聞こえる笑い声が、何故だか苛立たしい。  不思議と、驚きだとか恐怖だとかそういう気持ちは湧いてこなかった。近年まれにみる猛暑のせいで、頭の中が茹で上がって駄目になっているのかもしれない。当たり前のようにそこにいる兄の幽霊を、ごく自然なもののように思ってしまっている。 「なんの用? 成仏しないの?」 「塩~! なんなのお前、骨肉を分けた兄弟の幽霊が現れたんだから、もっと泣いたり喜んだりしろや! 人の心をどこに置いてきたんや」 「ウッゼ」  一言に対して3倍くらいの言葉が返ってくる。悪態をつく俺の耳元で、ぴーちくぱーちくと喧しい。  生きていた頃からそうだった。  物静かな人間の多い家庭で、この兄だけが突然変異のように煩かった。父に眉を顰められても、母が困った顔をしていても、俺に舌打ちされても、兄はいつだって楽しそうに喋り続けていた。こいつは心臓が鋼で出来ている蝉だ。幽霊になってもこんなにうるさい。  そんな兄が旅先で事故に遭ったと聞かされたのは3か月前。警察署で確認した兄の遺留品のなかに、オレンジ色のアロハシャツを見つけた時は、なんてアホなもんを着てるんだと思ったのを覚えている。5月にアロハって。毎日が夏休み野郎はこれだから、なんて。 「何しにきたの」 「……ちょっとやり残したことがあってなあ」  眉を下げて笑う兄の顔が見ていられなくて視線を落とす。サンダルを履いた足が見える。ぽたぽたと滴り落ちた汗が、アスファルトに黒いシミを作った。 「家に入らないの?」 「……ここには用がないから」  兄は首を振った。  そうして家の反対側を指差して「ちょっと付き合ってくれよ」と誘う。止める間もなかった。俺にも門限とか、課題とか、いろいろ都合があるのに。兄はいつもそうだ。こちらの事情なんて知ったことではないとばかりに、突然現れては勝手に消える。 「……クソ兄貴」  俺の返事なんて聞かずに歩き出した背中を、少し距離を開けて追いかけた。  見渡す限り田んぼの広がる田舎道を、背中を丸めて歩く。  頭の真上にはぎらつく太陽。熱のせいで揺れる地面。浅い自分の呼吸と、鼓膜を震わせる蝉の鳴き声。  薄く色づいた稲穂を蓄えた緑の地平線の手前に、飄々と揺れるアロハシャツの背中が恨めしい。 「覚えてるか? お前が小学校の頃だったっけ? 俺が中学……3年生だったから、そうだよな。夏休みに部活に行く俺を、遊びに行くモンだと思い込んでおっかけて来た事があったよなぁ。部活だって言っても聞きやしねえし。バチクソ泣いて困ったよ。でも駄菓子屋で買ったアイス分けてやったらスコンって泣き止んでよ。いや~お前はガキの頃からゲンキンなやつだったよ」 「んな昔のこと覚えてね~よ」 「昔っつったって、10年前だろ?」 「オッサンと違って俺にとっては昔なの」 「言いよるう~」  前を行くアロハシャツが「あ」と視線を止めた。その先には小さな駄菓子屋がある。  俺は何となくふらふらと駄菓子屋に入って、ソーダ味のアイスを買う。棒が2つ刺さった、真ん中で半分に割るアイス。値段は80円。10年前より20円も値上がった。 「うわ~。この駄菓子屋まだやってるんだなぁ! わはは、どこも変わってねえ。ば~ちゃんいくつになったの? 10年前に今年で89歳とか言ってたよね……ウッソ今年白寿じゃん。めでたいねぇ」 「25で死んだやつが何言ってんだよ」  パキン、とアイスを割る。  失敗した。顔を顰める。  小さくなってしまった方を咥えて、大きい方を差し出す。兄は少し困った顔をした。少し考えてから、差し出した手を引っ込める。  そうだ、こいつは幽霊だった。死んだ人間はものを食わない。——アイスを半分こすることも、ない。 「アンタ、アイス割るのへたくそだったよな。そんで、絶対小さい方を寄越す」 「お前冷たいモンばっか食わすと、ぽんぽん痛くするじゃん。それに、弟の物欲しそうな顔を見ながら食べるアイスは格別でな?」 「性格わっる」  ケタケタと笑う兄の言葉を聞きながら、シャクシャクとアイスをかじった。  兄は2つに分けるもの、というのが好きだったように思う。それで、いつも少し大きい方を食べた。当時はただただ横暴だと思っていたが、年の離れた兄弟だった。小さな弟の食べる量に配慮した結果だったのかもしれない。その証拠というわけじゃあないが、1つしかない物は必ず俺の前に差し出された。仲良し兄弟、などではなかったが、喧嘩らしい喧嘩はしたことがない。 「もう1人で全部食べれるなぁ」 「……別に、嬉しくねえよ」  太陽に焼かれた身体が、アイスの冷たさを歓迎している。  けれど、味の方はよくわからなかった。
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