非のある所

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 眼窩がくり抜かれた人物が、こちらを見ていた。  見ている。  そう感じているだけかもしれない。  なんといっても、相手には、目玉がないのだから。  それでも、目玉がある場所から視線を感じていた。  何かを言いたげに、ジイっと私を見ている。  そして、あいつは、或る場所を指さした。  指し示される場所を、私は見た。  先ほど、私を案内した受付が見える。  今回は、あいつなのか。  私はないゆっくりと立ち上がり、足早にその場所に向かった。 「少しいいですか?」 「はい。どうぞ」  女は、私を見て、事務的に答えた。 「その事務的な案内は何なんですか?」 「はい?」  間抜けな返事をした。  ああ。  だから、あいつに目を付けられたのか。  受付にいるくせに、てんで気が利かない。  こんな馬鹿な女を雇っているなんて、正気とは思えない。 「なんでそんなに事務的なんだって聞いてるんだよ」  少し怒鳴れば、すぐにビビる。  小さい声で、すみませんと女は言った。  あいつはまだ、女を指していた。  この女は、許されない。  私は、声を荒げて、女に詰め寄った。  ※※※  眼窩のない青年が現れたのは、もう数十年前のことだった。  Tシャツにジーパン。  どこにでもいる青年だった。  あいつは、私の行く先々に現れた。  家が近所で、職場も似たようなところなのだと、何も気にしていなかった。  あの青年が人間ではないとわかったのは、嫁がいなくなる寸前だった。  その頃、母親の病気が難病指定されているものだと発覚して、定期的な通院が必要になった。  私には仕事がある。  定期的に通院するには、母親のために有休をとらなければならない。  だから、その役目を嫁に頼んだ。  もちろん、快く引き受けてくれると思っていた。 「何を言っているんだ?」 「子育てに、家事に、仕事。これ以上は、無理よ」  完璧な妻でも、完璧な母親でもないくせに、この女は何を言っているんだ。  その時、あいつは現れた。  人の家の中に何で入ってきているのか、叩きだそうとしたとき、あいつの眼窩にあるべきものがなかった。  目玉のある位置は、漆黒の闇が広がっていた。  手を伸ばせば、あの闇に引き込まれてしまう。  そんな恐怖に、吐気を催した。  逃げようとしても、足が動かなかった。  耳鳴りが酷く、目眩がする。  足元から闇が迫っている。   あいつは、ただそこにいて、嫁を指していた。  耳鳴りが治まり、全ての音が消え去った。  そうか。  この状況を作ったのは、嫁なのか。  私は、嫁に言い寄った。  誰が悪いのか、きっちりと言い聞かせなければならない。  私は、誰が悪いのか、きっちりと言い聞かせた。  謝っても許さなかった。  どうせ口先だけで、次の瞬間には忘れる。  そんな謝罪の言葉はいらなかった。  とにかく私は、妻に説教を繰り返した。  どのくらいの時間が経ったのかわからない。  大声を上げていたせいで、息切れがしている。  妻の顔は青ざめていた。 「わかったのなら、いい」  いつのまにか、あいつは消えていた。  そして、妻と子供はいなくなった。  自分の無能さを棚に上げて、妻は逃げたのだ。  長く説教しても、無能な妻は何ひとつわかっていなかった。  煩い子供も一緒にいなくなっていた。  日頃から言うことを聞かずに煩いだけだったから、いなくなっても問題はなかった。  ただ、あの女が育てるのなら、ろくなものにならないだろう。  二度と私の前に現れなければ、それでいい。  ろくでもない子供の父親だと思われたくはなかったからだ。  その日から、私は母親とふたりで暮らした。  ※※※  母親は、私のために、朝と晩、飯の支度をする。  家事もやる。  私は働いているのだから、そんなことをする必要はない。  働いていない母親は、それしかすることがない。  ある時、体が痛いと訴えられた。  病気を患っていたことに、気がついた。  病院に連れて行かないとならない。  わざわざ有休を取っていくのもばからしい。  姉に協力を仰いだ。  答えは、ノーだった。  姉にも説教が必要かと思ったが、電話越しではあいつは指し示すことができないらしい。  結局、姉を説得できなかった私は、母親を病院に連れて行くのが役目になった。  ※※※  その頃から、あいつは私の前に、ちょくちょく現れた。  そして、誰かを指で指し示す。  あいつが指し示す人物は、私の苛立ちの原因だった。  無能の同僚。  スーパーやコンビニの無能な店員。  役所の受付。  病院や銀行の受付もだ。  この世の無能たちのせいで、私の苛立ちが頂点に達する。  私は無能たちに教えるように、説教を繰り返した。  口先だけの謝罪では、絶対に許さない。  無能な同僚は、消えて行った。  スーパーやコンビニの店員は、いるのか、いないのか、わからない。  私が説教した相手の顔なんて、いちいち覚えてはいない。  次に足を踏み入れても、あいつが現れなければ、私は何もしない。  なぜならば、私が何かを言わなければならない相手を教えてくれるのは、あいつの役目で、それに従っているだけだからだ。  今日も、無能な受付にどうあるべきかを説教している。  町医者じゃみられないから、大きな病院に連れて行った方がいいと言われてやってきた。  朝から待たされ、様々な検査を受けて、診察は五分で終わった。  長く拘束されたのに、医者も含めて、全員、事務的な対応だった。  最後の会計で、示された金額は、一万円を超えていた。  私の苛立ちは頂点に達していた。  そんなとき、あいつが現れた。 「もう二度と来なくてもいいんだぞ」  顧客を失うのは、一番怖いだろう。  こんな無能のせいで、私の母親という患者を失うんだ。  後で上司からたっぷり怒られればいい。  私が言ったことがどれだけ正しく、どれだけ意味あることなのか、きっとわかるだろう。 「患者様。申し訳ございませんが、こちらへ」  女の上司らしき人物が出てきた。  そうだ。  これから、私に謝罪をするのだろう。  かわいそうな役目だ。  無能な部下を持つと、上司はそういう目に遭わされる。  あいつも消えたことだし、そろそろ許すとしよう。 「以後、気を付けます」  頭を下げる無能と、無能の上司を後にし、私は母親を連れて病院を出た。 「散々な目に遭ったな」  病院を出ると、ちょうど太陽が空の真上にいるらしく、刺すように熱が降り注いでいた。  母親を車に乗せて、火傷しそうなくらい熱いハンドルを持ち、病院を後にした。  ふと、視界にあいつが入ってくる。  信号機の向こう。  なんでこっちを指しているんだ?  眼窩のくりぬかれた漆黒の闇が私を見つめて、指先は私を指している。  その瞬間、私の視界が暗転した。  ※※※ 「ねえ、聞いた? 昨日、受付で騒いでいた男いたでしょ? 病院の帰りに、事故で即死したらしいよ」 「本当に? 怖いね」  同僚たちが口々に、昨日の男の事故について話している。  後部座席に座っていた母親は無事で、運転席にいた息子だけが即死したという。 「昨日、散々怒鳴られていたけど、大丈夫だった?」 「私は平気だけど、後味が悪いわよね」 「そうよね。ここで、悪態つきまくって、即死って、なんか嫌よね」  私の肩がヒヤリとした。  ほんの少し首を動かし、視線の先で、あいつを確認した。  Tシャツにジーンズ姿、あるべきはずの場所に目玉はなく、漆黒の闇が広がっている。  私は、よくやった、というように、肩に置かれたあいつの指をそっと撫でた。      
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加