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一九八五年、小学六年生の夏休み。
潮崎 葉織と羽香奈はいとこの関係だったが、家庭の事情で戸籍上のきょうだいとなった。神奈川県藤沢市、江ノ島の奥深くにある元は土産店だった小さな住宅で、祖父母と彼らの四人家族で暮らし始めた。
中学二年生、初夏の一日。
「わたし、葉織くんが好き。大好き。初めて会ったあの日から、ずっと」
「オレも、羽香奈が好きだよ。誰より大切にしたい。これからもずっと一緒にいよう」
ふたりはきょうだいの関係のまま、これからも共に支え合い、助け合って生きていくことを誓った。
その次の、中学三年生の夏のことだった。彼らが添い遂げる長い長い人生の中で、たったの一度。夏休みの始まりからその年の夏が終わるまでに及ぶ、長期間の「仲違い」を経験したのは。
「いってらっしゃい、葉織くん」
「……いってきます」
その夏の間も、羽香奈は極力、葉織への態度を通常と変えたりしないよう努めていた。一見すると何の問題もなさそうにも見える、穏やかな笑顔で出かける葉織を玄関先で見送る。
けれど、葉織の目にはそれはちっとも隠せていない。ちょうど、彼女の心臓がありそうな位置、胸元。そこに黒い靄が、ゆっくりと渦を巻くように漂っているから。
葉織の目は常人のそれとは違う、不思議な能力が宿っている。人の心のコンディションが、「それぞれの心の色に染まった靄」という形で見えてしまう。精神状態に不調を抱えていない人の靄は個性的な彩りで美しく、しかし、不調を抱えている者の靄は黒く染まっている。
葉織の手が黒い靄を掴んで「あること」をすると、その持ち主は心の不調が解消される。ならば今、目の前にいる羽香奈にもそうすれば良いのでは? 実際、羽香奈は葉織にそうされることを拒まない。それだけ葉織のことを信じ、慕っているから。
だが葉織は、こんな状況だからこそ自分の能力に頼りたくない。自分がこうしたい、と決めたことで羽香奈と意見が割れ、彼女の心は黒く染まった。特別な力でその感情を強制的に薄れさせ、自分のしたいことを認めさせる。よりにもよって羽香奈に対して、そんな非道が出来るはずがない。
待ち合わせは江ノ島の玄関口、青銅の鳥居の前で十四時という約束になっていた。相手は島外に住んでいて、葉織の頼みで長い弁天橋を渡ってこちらに来てくれる。中学生らしいささやかな礼として、葉織は相手の好む飲料を鳥居周辺の土産店で買っていたのだが。
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