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子どもは幼いときから人気のない静かな森の中でぼうっとするのが好きだった。
『彼』に出会ったのもその癖のおかげに他ならない。
小学生たちの夏休みも終盤に差し掛かったある日、神社にいた野良猫を追いかけているうちに、冒険心をくすぐられる大きな赤い鳥居を見つけた。
子どもはその先に続く石の階段を躊躇なく登り『彼』の住まう社を訪った。
『彼』は、ありていに言えば変なひとだった。
幼心にもこのひとは不審者に違いない、と冷や汗を流し踵を返したほどだ。
がし、と肩を掴まれたときには誘拐される!! と半べそをかいた。
「人の子が尋ねてくるとは珍しい。せっかく来たのですから、ゆっくりしていくといい」
存外に優しい声をかけられて、子どもは目を白黒させた。
「あの……」
社の中は狭く、『彼』がだらりと寝転がると長い脚が窮屈そうだ。
「その服のままで寝たら、ママに怒られない?」
「んん……?」
スーツ、というのだったか。ネクタイも緩めずにだらだらしては皺になる、といつもパパが怒られているのを聞いていた。
「ああ、これは特別な衣服なので平気ですよ。私にママはいませんし。それよりもあなた、随分と疲れた表情をしていますね。子どものくせに生意気です」
緩慢な動きで腕を引かれて、子どもは『彼』の隣に引き倒されてしまった。畳の匂いが鼻腔をくすぐる。
「ほら、おいで。ゆっくり休んでいきなさい」
「……でも、ママが知らない人と遊んじゃダメだって」
「遊ぶのではなく、ただ休ませてあげるだけです。君、自分では気が付いていないようですが相当『参って』いるでしょう」
「?」
「いいから、なにも考えない。目をつぶる」
「……? わかっ、た」
『彼』の手のひらが子どもの目を覆う。ひんやりとした手のひらが心地よかった。言われた通りに目を閉じると、『彼』が言ったように、確かに眠たくなってきたような気がする。
「眠ってしまっても良いですが、暗くなる前には帰るのですよ。ママ、が心配してしまうでしょうから」
「……うん」
「大丈夫です、ちゃんと起こしてあげますから」
『彼』のもう一方の手が、子どもの薄い腹を優しくトントンと寝かしつけるような動きで叩く。
なんだか自分が赤ちゃんになってしまったようで、しかもよく分からない場所にいたよく分からない人に寝かしつけられているというのは不思議な感覚だったが、別段嫌だとか不安だとかいう気持ちは湧かなかった。
すっかり瞼も重たくなり、意識が途切れそうになったとき、なにかふわふわしたものが身体に当たったような気がした。
それ以来、子どもは社の『彼』の元にたびたび通った。
子どもの両親が離婚し、母の恋人という血のつながらない他人が家に出入りするようになってからは、より一層この社で過ごす時間が長くなっていった。
『彼』はいつだって優しく子どもを受け入れてくれた。「いけませんね、人間は」と誰に言うでもなく呟いて、子どもの愚痴を聞いたり、どこからか持ってきたお菓子や軽食を与えてくれたりした。
*******
森の中で、子どもは『彼』の背中を追いかけて歩いていた。
社のある鳥居の右手には、古い森が広がっている。一度だけ、きまぐれに『彼』に連れられてその森の奥まで行ったことがあった。
川のせせらぎと鳥の声と虫の声。二人の足音だけが響く、静かで、ぼんやりとした時間が子どもにはとても心地よく思われた。
二人だけで散歩をするなんて珍しいことで、『彼』との逢瀬の中でも特に印象深い出来事の一つである。
そもそも『彼』と社以外で会ったのは、あの時が最初で最後だった。
黙々と歩を進めていたとき、前を歩いていた『彼』が振り返って、唐突に口を開いた。
「君、人を殺したことがありますか?」
子どもは一瞬、言葉の意味がわからなかった。一体なにを聞くのだろう。
「えっ、あるわけないよ。当たり前じゃん」
あっけらかんとして答えた子どもに、『彼』は不気味な沈黙を返した。
それきり黙ったままひたすらに川に沿って歩く『彼』に、子どもは疑問符を浮かべたまま付いて歩いていく。
「私はね、あるのですよ」
「へ……」
「この川をもっとずっと遡っていったところに、深い沼があってね。そこへおびき出して、突き落としてやったんです」
「……誰、を?」
「ふふ。憎くて憎くて仕方のなかった相手を、です」
「……」
「私が怖いですか」
「ううん、怖くないよ」
「このまま、私は君をその沼へ連れて行ってしまうやもしれませんよ」
「そんなこと、しないよ」
「…………」
「今日は、もう帰る? お社で一緒に寝よっか」
「……そうですね、そう、しましょうか」
子どもの小さな手を取って、『彼』は元来た道を引き返し始めた。
「最近、お家の方はどうなのです」
「んー。ママたちにはたまにしか会わないから、よくわからないけど。帰ったら家じゅうが散らかっていたり、逆に物がなくなったりしてる」
子どもの発言を聞いて、『彼』は眉をひそめる。
「それを、なんかボクのせいだって言ってママに怒られた。ボクは知らないから、きっとアイツの仕業なのにさ。そう言っても信じてくれないの」
「……そうですか。いや、なんというか。どうしても我慢ならないことが合ったら、私に言ってくださいね」
『彼』の発言に、ゾクリと背筋が凍るような感覚がしたのは、流れる川の涼のせいだったのだろうか。
上目遣いに見た『彼』は、いつも通り柔らかい笑顔をしていた。
――君、人を殺したことがありますか?
――私はね、あるのですよ
――この川をもっとずっと遡っていったところに、深い沼があってね。そこへおびき出して、突き落としてやったんですよ
その日、子どもは『彼』が自分とは違う存在なのだということに漠然と気が付いた。具体的に何なのかはわからない。
以前から『彼』は異様な雰囲気をまとったひとだと思っていた。自分とは違うナニカなのだと。
子どもは、『彼』が好きだった。
その気持ちがどういう種類のものなのかさえ自覚していないけれども、確かに「好き」なのだった。
『彼』と同じ場所に立ちたい。『彼』と同じものが見たい。『彼』にふさわしい存在になりたい。憧れの『彼』に近づきたい。
少しでも――。
*******
――聞き間違い、でしょうか。君、今なんと?
――は、はは。あははははは!! これは傑作だ!
――ああ、君、とうとうこちらへ足を踏み入れてしまったのですね
社は真っ暗で、闇が広がるばかりだ。中にいるのであろう『彼』も、声は聞こえるのに姿はまるで闇に溶けてしまったかのように視界に捉えることができない。
社の奥で、何か光が灯った。
赤くて丸い、光。
赤い、瞳?
『彼』の瞳は赤色ではなかったはずだ。
では、今この社にいるのは一体ナニ?
――ようこそ、歓迎しますよ。
闇から浮かび上がったのは、確かに『彼』だったが、明らかに尋常の様子とは違っていた。
瞳が赤く光っていて、顔には得体のしれない文様の入れ墨がしてあったし、いつものスーツ姿ではなく、和服姿だった。
雰囲気がいつもと違っていて、どこか不気味で、近寄ってはいけないような、戻れなくなるような気がして、子どもは先ほどまで抱いていた昂揚感をすっかり失ってしまった。
これは『彼』なのだろうか。本当に『彼』の姿だというのか。
子どもは怖くなった。
長い間、この社で一緒の時間を過ごしていたというのに、目の前の存在が急に分からなくなった。
一歩、後ずさりする。
――どうしたんです、逃げないでください
暗闇から、『 』の腕がこちらに伸びてきた。
逃げなきゃ、と子どもは思った。
ママに、言わなきゃ。アイツはもういないよって。近所のため池に沈めたんだって。
それで、今度こそ二人で穏やかに生きるんだ。
それで、たまには、このお社にやってきて『彼』と他愛のないことを話したり、眠ったりして過ごすんだ。
でも、目の前のこのひとは、なに? だれ?
どうしてこんなにも、怖いと思ってしまうのだろう。
身体がうまく動かなくて、とうとう、迫ってきた両の腕は子どもをしっかりと抱きとめた。
耳元で、声がする。
――つかまえた。
終
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