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大切な人の大切な人
まるで心臓が耳の中で脈打っているかのようだ。
水の中に居るみたいに耳が詰まり、ドクドクと激しく音を立てる鼓動に加え、その奥でキーンと高い金属のような音が響き、それ以外の音は何も聞こえない。
全身が震え、力が抜けそうになるのをグッと堪え、腕に力を込め直して、同じようにカタカタと震えている華奢な身体を抱え、小さな羽根を必死で動かした。
…カリーナの家に忍び込み、寝室と思われる部屋の前で中の会話を盗み聞きした時。
聞こえてきたのはリヒトとカリーナが愛を囁き合う声でも、激しく抱き合う情事の音でもなく。
怯えた様子のカリーナの声と、知らない男の声が二人分。
「…約束が違うじゃねぇかよぉ。なぁハス?」
「...そうだねゲデ、僕もそう思う...あんたの嫉妬心を僕達に吸収させる代わりに、あんたに都合のいいようにあの祓魔師の記憶を弄ってあげるっていう約束じゃなかった...?どうなってるの...?」
ドクンと心臓が大きな音を立てて跳ね上がり、一気に汗が吹き出してくるのを感じた。
(...リヒトじゃない、これは、リヒトを襲った悪魔達の声だ...!)
会話の内容ですぐに分かった。
どういう訳かリヒトは今夜はカリーナと別々に行動しているようで、この場にはいない。
その隙をついて、件の双子の悪魔がカリーナのところにやって来たのだ。
どうしよう。
どうしたらいい?
この場にはおれしかいない。
相手は二体。
いくら不意をつかれたとは言え、リヒトがやられてしまった相手だ、おれが敵うはずがない。
「...っ、だから、あげたじゃない!」
「最初の一回だけじゃねぇかよ~。そんなんで足りると思ってんのか?誰が一回でいいっつった?あの日以来ず~っとあの祓魔師野郎とイチャイチャくっつきやがってよぉ。お前に接触する隙なんて無かったじゃねぇか」
「し...知らないわよ、そんなの...」
「...しかもやっと来てみたら、今のあんたからは前みたいな嫉妬の匂いが全然しないし...あの男を手に入れて満足しちゃったんでしょ......ねぇ、どうしてくれんの...?」
「どう...って......」
...それに、この展開はかなりまずいかもしれない。
カリーナは自分の嫉妬心を悪魔達に与えるのと引き換えに、リヒトの記憶の操作を悪魔達に依頼した。
嫉妬心から得られる魔力を渡すのは一度だけ、という約束をした訳ではないのにも関わらず、最初の一度だけ吸わせてからは悪魔達と接触をしていなかった。
しかも接触をしていない間に彼らに与えなければならない筈の嫉妬心が薄れてしまっていて、もう彼らに渡せるほどの力が残っていなかった。
それはつまり、悪魔達との約束を一方的に破ってしまったということで、そうなったら狙われるのは間違いなく...。
「...俺らに寄越すはずの嫉妬心、無くなっちまったんじゃあ仕方ねぇよなぁ。...代わりにお前の薄汚ぇ魂で我慢してやるよ!」
片方の悪魔がそう叫ぶのとほぼ同時に、おれは憑依を解いて寝室に飛び込み、魔力の殆どをかき集めた渾身の一撃で悪魔達を弾き飛ばすと、彼らが呆気にとられている隙にカリーナを抱きかかえて、開いていた窓から外に飛び出した。
悪魔と手を組んだ人間が、悪魔との約束を破ってしまった場合、ほぼ間違いなくその魂を狙われる。
そして魂を抜かれた人間は死んでしまうのだ。
カリーナはおれにとって本来憎むべき対象の筈で、わざわざ自らの身を危険に晒してまで助ける必要なんて無かったのに、何故かこの人を守らなくては、という思いに駆られ、身体が勝手に動いた。
カリーナ自身も同じことを思ったらしく、「...どうして私を助けたの?」と震える声で聞かれた。
どうして。
それに対する明確な答えは分からないし、正直今は逃げることに必死で答えを探している余裕なんて無い。
だけど一つだけ、はっきり言いきれるのは。
「...いまは、あなたが、リヒトの恋人だから…...っ、大切な人の大切な人を守りたかったんだ...」
これだけは紛れもない本心。
大好きなリヒトが大切にしているものは、おれも大切にしたい。
例えその関係がまやかしだったとしても。
「...っうしろ!」
おれの言葉をどう受け止めたのか、涙でゆらゆらと揺れていたカリーナの瞳が見開かれる。
それと同時に叫んだ彼女の声に反応して、咄嗟に下に避けると、頭上を魔力がこもった圧が凄まじい速度で過ぎ去っていった。
「......っう」
「...うそ...怪我っ...!」
焼けるような痛みを感じ、思わず顔を歪める。
避けきれたと思ったその一撃は、僅かにおれの羽根を掠めていたらしい。
さっき一瞬だけ見た二体の悪魔の羽根の大きさは中級のそれだったから、今の攻撃の威力も相当なものだっただろう。
ただ、痛みや出血はあるものの、大した怪我じゃない。
魔力を使えばすぐに塞がるような傷だ。
それでも、非日常的な光景に混乱してしまったカリーナは泣きじゃくっていて、そんな彼女を安心させるように笑いかけ、
「この程度ならすぐ治るから、大丈夫」
そう伝えてはみたものの、このまま飛び続けるのは無理そうだ。
一緒に走れる?と聞くと頷いてくれたので、急いで地上に降り立ち、邪魔な羽根をしまって彼女の手を引き夢中で街を駆け抜けた。
(...りひと...たすけて...っ)
カリーナの手を握っているのとは反対の手で、首筋の契約印に触れ、リヒトに必死で呼びかける。
以前ケンさんが、契約印の話をするとリヒトは酷い頭痛に襲われると言っていたから、もしかしたら今もそうなっているかもしれない。
無視される可能性だって十分に有り得る。
それでも。
(...たすけてリヒト、カリーナが、殺されちゃう...!)
危険に晒されているのは、おれの命だけじゃない。
今のリヒトにとって一番大切な人の命も脅かされている。
それに、通信手段があるのはリヒトだけ。
だから例えリヒトの身に負担が掛かると分かっていても、助けを求める声を止めることは出来なかった。
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