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序
何も書かなくなってぼーっとしていたら、あっという間に二年近く経っていた。
一度、「私もう終わりかもな」と思ったことは覚えている。書くことはいつでも中断でき、いつでも始められること。そのくらいの距離感で付き合いたいことなのに、結局は失いたくなくてしがみついている。
書かないでいると普通に苦しい。
いざキーボードに手を置いてみると一文字も出て来ないくせに、何も書かないでいると落ち着かない。鳩尾のあたりに吹きこぼれる寸前の鍋蓋があるみたいに、がたついて落ち着かない。
その一方で、新しい何かにもどんどん出会う。まさか自分がハマると思っていなかったことにハマったり、嫌いになると思っていなかったことを嫌いになったり、三十歳を越えて「あれはそういう意味か」と腑に落ちたりする。生きていて良かったと思う日と、生きていたくなかったと思う日は交互にやって来る。
それでも本だけは真面目に読んでいる。少し前までは小説を読むこと自体がしんどくて、ついには読書からも離れたくなるのだろうかと思ったが、頭の中が飽和状態で上手く内容が入ってこないだけだった。一時期より読むペースは落ちたけれど、それでも新しい本を求めてしまう。
いつだったか友人に「本ばかり読んで人と関わらないと世界が広がらないよ」と言われたことがある。一理あるが、半分だけ訂正したい。本は人間が作ったものだ。自分が普通に生きているだけでは出会わない人々の思考にコンタクトできる。作者本人と直に深い関係を築けるわけではないが、それもコミュニケーションの一部だと思う。もちろんすべてをわかり合うことはできないけれど、その本を読んでいるあいだ袖すり合うように書き手と読み手の目が合う瞬間が必ずある。
その本が出版されて何年経とうとそれは可能。だから読めば読むほど、「いきもの」と知り合うことができるのが本というメディアだ。 そして思いがけないアクセスで次々に扉が開いていく。
最近はAIも小説を書く時代だけれど、機械が小説を書くたよりにしているのは様々な人々の思考の集積だ。つまり現状、人間が考えなくなったら、機械も滅びる。機械も人が作ったものだから。機械に人間を代替させることは出来ない。当座の労働力をまかなってはくれるかもしれないけれど。だって機械は真の意味で恥や反省を知らない。そういった存在ともコミュニケーションを取れる世の中になってきたのだ。ちょっと楽しい。だからAIがすぐに回答するのが困ることやともに考えなくてはならないようなことを考え続ける人間になれば、きっと文化文明は新しい花を咲かせることができる。
先日ChatGPTに「あなたの将来の夢は何?」と尋ねた。機械のお手本のような美しい答えがあって、その真摯さに泣きたくなった。人間って意地悪だ。でも、この意地悪すら学習して、時間が経てば切れ味鋭いジョークを言ったりするようになるのかもしれない。機械は恥同様、意地悪を知らない。道具として生まれたことに自覚的なのもすごい能力だ、と思った。
さて話題があちこちに逸れてしまったけれど、私が再び文章を書けるようになるまでのリハビリとして、ここでエッセイを書こうと思う。話題が散漫すぎて統一感がないことを先に断っておく。もしかしたら文章のテンションも話題によって違うかも知れないけれど、それも「練習しているんだな」くらいに思って頂けると幸いである。
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