チューリヒ国際空港

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 詰まりそうになる息を無理やり、言葉とともに押し出した。  智樹(ともき)の絶句する顔が、受話器の向こうに思い浮かんだ。  教授との面接で受け入れ許可をもらって帰国後、怒涛の日々だった。  入学課への慣れないドイツ語の問い合わせ。手続き期間に合わせての提出書類の準備、翻訳。並行して国費留学奨学金への応募と試験。欧州の事務からは一回メールを送ってもなかなか返事が来ない。でも電話じゃ今の語学力では不安だし、文書証拠が残らない。  時差に苛立ちが募る。向こうからメールが来たその時なら、相手はまだパソコン前に座っているはずだ。夜中に着信したメールに、寝不足で頭痛を覚えながら返信を打った。  それに、相手は入学課だけじゃない。向こうの大学とやり取りしながら日本国内の大学への留学手続き、在学延長期間の確認、渡航前に提出する研究進捗報告の起草、国費に落ちた時に備えて別の奨学金のチェック……時間はいくらあっても足りず、不安と焦りで四六時中、頭がいっぱいだった。  そんな中、付き合っていた彼氏とのデートは、正直言って苦痛でしかなかった。  街中を二人で歩いていても、カフェでお茶していても、映画館に誘われても、いつだって頭の中で「こんなことしている時間に……」という思いがよぎった。  ただでさえ留学準備は大変だと聞いていたが、運の悪いことに私の行きたい大学は、先輩にも知り合いにも、近年正規生で留学した人が一人もいなかった。身近に事情を知る人はなく、公の文言からはなかなかわかりにくい事務手続きの仔細について相談できる人がおらず、ネットのブログにも縋りたい気持ちで情報を掻き集め、万全に万全をと入学課へ細部にわたって確認しなければならない。  ほんの数分でさえ、研究計画書の推敲やメールの一文が書ける。少しでも空いた時間は資金集めのためにバイトを詰め込んだ。  デートの時間が邪魔だった。 『何で、突然?』  大学院に進んだ私と違って、智樹は就職した。平日にしっかり仕事を終え、土日は休む。メリハリの効いた社会人の働き方をしていた。オンとオフの区別がはっきりしている。  研究を続けている私は真逆だ。平日も休日も無い。怠惰になって休もうと思えばいくらでも休めるが、裏を返せばいつだってオン・モード、一分一秒でも惜しかった。
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