チューリヒ国際空港

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 智樹のような余裕などあるわけがなかった。「たまには休みなよ」という言葉すら、肯定できないほどに。  精神的な距離は、感じるたび、さらに広がった。 「かほは、まだ学生だからいいよな」  社会人になった智樹が仕事で疲弊したとき、事あるごとに呟いた。会社勤めの辛さは私には分からないから、何も言えなかった。  でも自分も、タイム・カードはないけれど、やらなければならないことは山積の状況。一つクリアしたと思っても次があり、先方から回答があれば新たにこなさなければならないステップが加わる。自分で全て処理しなければ誰も代わりにやってくれる人はおらず、乗り越えなければ、研究は前に進まない。  しかし、それを当事者以外にわかってもらおうなんて、無理な注文だ。 「ごめん。勝手だと思う。智樹が悪いわけじゃないの」  智樹のことが嫌いなわけじゃない。大事にしてくれているのがとても良くわかった。  だから辛かった。智樹といる時間に、鬱陶しさを感じてしまう自分が。反吐の出るようなひどい罪悪感が胸の奥を切った。こんなに想ってくれる相手に対して、ざわついた感情を持って付き合っていることに。  しかも留学してしまったら、学位取得まで何年かかるか分からない。年に数回帰ってこられるかも。  好きだという気持ちをくれる智樹と、このまま付き合うことに耐えられるほど傲慢にはなりたくなくて。  けれども、彼に一から状況を説明して相談できる忍耐力を持つほど、強くもなれなかった。 『少し、考えさせて』  黙って私の話を聞いていた彼が通話を切ってから、虚無感と安心で、久方ぶりに頭の中がぽっかりと空っぽになった気がした。 ***  客室の狭い通路に並んだ人の列が崩れた。前方部の非常口が開いたのだ。逸る思いに焦れながら、もたつく乗客の動きを待つ。完璧な笑顔のCAに礼を述べて機体とゲートの接続部に足をつけると、人の脇を縫って走り出した。  到着はゲートE18。一番端になる。人が列をなすエスカレーターを横目に階段をかけ登り、案内板を見ながら廊下を走る。保安検査場の手前に別の旅客機から降りたツアー客の群れがいる。あれの後になったら間に合わない。ツアー・コンダクターの脇をすり抜けて検査場のゴムベルトの前に陣取った。
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