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靴まで脱ぐ厳重チェックを済ませ、ボストンバッグをひっ掴んで再び走る。今度は長いエスカレーターを階下へ、ちょうどホームへ到着した空港内のターミナル同士をつなぐスカイメトロは、私が飛び乗った直後に扉を閉めた。
「Sehr geehrte Gäste, Willkommen am Flughafen Zürich……」
今の気分に全く場違いな長閑な牧場のサウンドがわざとらしくターミナルを繋ぐ車内に流れる。
乗り換え便の搭乗時間まで残り二十分を切った。
メトロを飛び降りて再び走り出す——途端にフロアがひらけ、いくつものリード線がフロア内を細かく仕切っていた。頭よりはるかに高い位置にいくつものEUのマークと電光掲示板。入国審査だ。
悠々とEUパスポート所持者が空いたゲートをスムーズに通って行くのに対し、進みが遅いのは「All Passenger」の列である。幸い、まだそこまで長くない。
私はパスポートと、それから渡航に必要な全ての書類が入ったぱんぱんのドキュメント・ファイルをボストンバッグから取り出した。心臓が高鳴るのが聞こえる。何もやましいことはない。それでもここで、自分達が余所者であることに変わりはない。
「こんにちは」
なるべく笑顔で、係員にパスポートと旅券を差し出す。
「こんちは。日本から、乗り換えね。渡航の目的は?」
「留学です」
「へえ、何を?」
「文学」
母の言葉がフラッシュバックする。
***
「今から留学? なに考えてるの、あなた」
また始まった、と思った。
「日本で研究して論文書けばいいじゃない。留学したら、また社会に出るの遅くなるじゃないの」
自分の研究内容は日本ではできないし、学位を取らなきゃ専門で社会に出るのも難しい時代なの。
喉元まで出かかる言葉を、ぐっとこらえた。
「大体、文学なんていうのは余裕のある人がやることよ。今日生きるのに大変な人だってたくさんいるんだから」
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