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何度聞いたか分からない論理だ。もう聞き過ぎたといくら思っても、どうしても慣れない。医学や法学など実学ばかりを見ていた母には、実学の世界だけが正しく見えるのだろう。私がやる虚学は、実利がないお遊びに思えるに違いない。
——でも、そんな風に文学や芸術から学ばずにいて、あなたみたいに人の心の機微に鈍感になる人ばかりで、本当に幸せな世の中を作れるの?
「まあ勝手にしなさいよ。何かアドヴァイスでも言って失敗したとき、私のせいにされそうだものね」
母と違って、実学分野の友人知人にも、いわゆる虚学を尊重してくれる人達も沢山いる。そうした考え方に触れてこられなかった母が、むしろ不運に感じた。
思った以上に遅れる入学課とのやりとりにやきもきし、在留許可証申請方法の情報が各機関のホームページで若干違って読めるのに混乱しながら、瞬く間に月日が過ぎていった。あまりの煩雑さに泣きそうになる自分を小馬鹿に言う母の言葉を背に受けながら、大使館、外務省、大学、警察本庁へと毎日あちらこちらへ帆走する。
必要書類は現地の移民課へ直接メールで確認し、言質をとった。国費留学生合格証明書を切符がわりに宿舎探し、出生証明の翻訳依頼、外務省と大使館での書類公認、無犯罪証明書の取得……ビルの窓ガラスから光が照り返す霞ヶ関で目眩を起こし、灼熱のアスファルトにへたり込みそうになったこともあった。
それでも、止まれなかった。そして、ついに来た。
「先生! 入学許可降りました!」
日本の指導教授へ報告に走った日は、台風一過の晴天だった。
「おめでとう。よく頑張った。気持ちが安定しないと、研究はできないからね」
普段厳しい師匠が、珍しく柔らかな笑みで迎えてくれた。
想定入寮日から一ヶ月を切ったところだ。航空券が、やっと買える。
***
「文学! いいねぇ。僕はトールキンが好きだな」
ドンっと大きな音を立てながら、役員はパスポートにスタンプを押す。
「もうすぐ新学期だ。成功を!」
「ありがとう!」
手渡されたパスポートが熱い。握りしめたまま、ゲートを抜けてエスカレーターを駆け上がる。するとそれまで冷たい蛍光灯や灰青の壁ばかりだったのが、急に暖かなライトとスタイリッシュな幾何学デザインの壁面オブジェが目に飛び込んできた。出国ラウンジだ。
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