海へ行くバス

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 暑すぎると、周りの音が遠くに聴こえる気がする。そんな事を思いながら僕は市立図書館への道を歩いていた。  午前中解放されている学校の自習室、午後は図書館、夜は自宅と、移動して勉強する。一箇所に留まっているより長時間集中できるので、夏休みはこのやり方で受験勉強を進めていた。  図書館は新館と旧館があり、小学生とかは設備の整った新館の方に行ってしまう。古びた旧館は空いており、静かで勉強をするには打って付けだった。何より涼しくて料金がかからない。  同じような事を考える輩はいるもので、何日か経つうちに見知った顔が揃うようになった。でも、お互いに挨拶をすることもない。受験生同士の、暗黙の了解というやつだ。  彼も、そんな中の一人だった。学校は同じだが、一度も同じクラスになった事はない。僕らの通っている高校は理系と文系でクラスが分かれていたので、彼はおそらく文系なのだろう。  いつも人より一つだけ多く胸元のボタンを外している奴だなあ、ぐらいが僕から彼への印象の全てだった。  一教科区切りがついたところで、中庭に出て自販機のボトル飲料を買う。今人気で、あちらこちらで売り切れていたものが、ここの自販機ではいつも買うことが出来た。ささやかなラッキーを片手にベンチへ向かうと、その日は先客として彼が座っていた。 「ナギサ君、だよね確か」  彼に名前を呼ばれて、僕は不思議な気がした。こちらは名前を知らない彼が、自分の名前を知っている。 「国立受けるの?」 「うん、まあ」 「科目多くて大変だね。僕は私文だから」 「そうなんだ」  ベンチの端と端に座って、ぽつりぽつりと会話をキャッチボールする。 「ナギサ君三中だったっけ?ヤマガと同じ」  ああ、それで名前を知っているのか。ちょっと気が緩む。 「僕、浜辺中なんだよね」 「海の近くだ」 「うん、家からちょっと歩いたら、すぐ海だよ」 「へえ……、なんかいいね」  ウチ来る? 「え?これから?」 「うん。ちょっと息抜きに。海行かない?」  そう、多分暑さと勉強のし過ぎで、頭がバグっていたんだと思う。同じ学校とはいえ、今日話したばかりの奴の家に行くなんて。  でも、朝から晩までずっと勉強ばかりの毎日に潜りすぎていた。もうすぐ夏休みも終わる。そろそろ水面に顔を上げて、息継ぎがしたかった。  それにしても町から海のエリアまでは、バスで三十分程だ。ほんの三十分で、海がすぐそばにある家と、そこに住んでいる彼という非日常にたどり着ける事に実感が湧かないまま、僕は海行きのバスに乗った。  彼の家は、バス停を降りてすぐだった。 「ちょっと待ってて」  彼は僕をドアの前で待たせて、家に入る。戻ってきた腕には、綿シャツが二枚下げられていた。  私道らしき細い道を彼に着いて歩いていくと、やがて足が重くなる。道に砂利が混じってきたのだ。  壊れているのか元々そうなのかわからない簡素な柵を越えると、本当にすぐに、魔法のように、海が僕の眼下に広がっていた。 「あの自販機、穴場だったよな」  高校の廊下で会った時、そんな話をしたのが最後だ。僕は志望校に受かり、故郷を離れた。彼も東京の私立大学に合格したらしいが、その後どうしているのかは知らない。 「海風避け」 そう言って彼が綿シャツをこちらに寄越す。 「ここ遊泳禁止だから、見るだけだけどね」  黙って海を見る。  彼はいつの間にか遠ざかっていて、浜辺を歩いている。  彼の羽織っている綿シャツが、吹き流しのようにはためいていたのを覚えている。    
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