祈りと願い(ジャスパーの手記)

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祈りと願い(ジャスパーの手記)

 セス様は美しかった。  戦場を馬で駆ける姿は勇壮で、青みがかった黒髪が靡く威風堂々とした姿に、味方はおろか敵さえも見惚れていた。  なぜ戦うのか、なぜ生きるのか。  理由さえ持たない者たちの光が消えた瞳には、決然と生きる意思が煌めく姿が一際美しく映ったことだろう。あの戦場で本当に生きていたのは、セス様しかいなかったのかもしれない。確固たる生への決意を漲らせ、戦場で躍動する姿は生命力に溢れ、潔く美しくまさしく神のようだった。  セス様のためにこの命を使いたい。そう言って足元に額づく者の中には、敵国の者もいた。たった一夜の夢が欲しい。そう言って寝所に潜り込む者には、娼婦ではなく貴族さえもいた。セス様はその全てに僅かな興味も意識も、一瞬たりとも向けることはなかった。  まあ、私が女は追い返すか下げ渡し、兵士は使える者を勝手に選別したりしたのだが。そして出来上がった傭兵団は、いつの間にか第三勢力と呼べるほどに大きくなった。しかしセス様はその全てに興味など示さなかった。もしかしたら傭兵団が作り上げられていることすら、知らなかったかもしれない。  一切何にも興味を示さないセス様。そのセス様が唯一表情を変える、いつも眺めている大切なもの。  私は少なくない金額を酒代に注ぎ込み、ようやく大切に隠し持つものが何かを探り当てた。もしかしたらセス様が何にも関心がないのは、たった一つの物に全てを注ぎ込んだが故だったのかもしれない。 ※※※※※  ヘイヴンの裏路地より、安全なねぐら。セスとレイラはそこに息を潜め、寄り添って過ごした。  子供から大人へ。足りない糧を分け合い、青年と呼べる年齢まで生き延びられたのは、黒の森という安息の地を得られたからに他ならない。  もっとも成長したからと言って、生きる術は多少の変化を見せただけだった。長引く戦争に取り合う糧の絶対数はより減り、必要となる糧は成長とともに増えていく。  異国の血の恩恵で体格に恵まれたセスに、挑む者はいなくなっていた。奪われる側から奪う側へ。奪い取ることに、もうそれほど苦労はしなくなっていた。  セスを買うのは女になった。なんの反応も示さず、一切反応もしないセス。ただ横たわるだけのセスを、買った女は懸命に身体を撫でまわし、身体を擦り付けて恍惚と瞳を潤ませる。交わることすらできなくても、女達は現実から逃避するようにセスに理想を求めていた。 「……レイラ!」 「セス……! セス……!」  手に入れた糧を手に森に戻る。必死に名前を呼びながら、瞳を潤ませ駆け寄るレイラにセスは両手を広げた。飛び込んできた華奢な身体を抱き留める。セスは笑みを浮かべたが、レイラは表情を曇らせた。抱き寄せてくる腕をレイラは押しのけ、無言で俯く。 「……レイラ? 今日はオレンジがある」  俯くレイラを覗き込みながら、セスは機嫌を取るようにオレンジを差し出した。レイラは悲しそうに首を振った。 「オレンジ、好きだろう? お前のために持ってきた。一緒に食べよう?」 「……いらない」 「ならパンはどうだ? 今日は芋もある。焼いてやろうか?」 「いらない!」  狼狽えるセスにレイラは、声を荒げて顔を上げる。泥で覆い隠された美貌が、月明かりに照らされた。泥では隠せない星灯りの大きな紫藍の瞳が、ゆらりと歪むのを見てセスは手にしていたオレンジを取り落とした。 「レイラ……! レイラ、どうして泣くんだ? どこか痛いのか? 俺が……」  オロオロと取りすがるセスの手を掴むと、レイラは湖に向かって歩き出す。人より大きくなった身体に石さえ砕く怪力でも、セスはなすがままレイラに引っ張られていった。そのままレイラは服を脱ぎ捨て、湖へと身体を浸らせる。 「セス! 来て! すぐに!」  月明かりに照らされる湖で、くるりと顔を向けたレイラに、セスは一も二もなく即座に従った。服を脱ぎ捨て、従順な犬のように。怒りのにじむレイラの瞳に、怯えるようにセスは手を伸ばした。 「……レイラ……レイラ……」 「…………」  華奢で小さなレイラの怒りに、震える声でレイラの名を呼ぶセスの手は拒れなかった。それに安堵して、恐る恐るいつものように泥を洗い流し始める。レイラもセスの身体をゴシゴシと強く擦り出した。  セスが泥を完全に洗い流し終わっても、レイラは手を止めなかった。表情には激しい怒りが滲み、でも星屑の瞳は深い悲しみに潤んでいる。いつまでも手を止めないレイラの瞳から、ぼろりと涙がこぼれ落ちた。  セスは耐えられなくなり、身体を清め続けるレイラを抱きしめる。 「レイラ……泣くな……怒らないでくれ……許してくれ、レイラ……頼む……レイラ……」 「……イヤな匂いがするの……セス、イヤなの……イヤなの……」  細く声を上げて泣き出したレイラが、セスの身体に拳を打ちつける。殴られることよりも、折れそうなレイラの腕を気にして、セスは庇うようにその腕を優しく止める。レイラがセスの纏う匂いに怒りを募らせている。それにセスは気づいてすらいなかった。  それでも泣くレイラを抱きしめると、心を込めて言い聞かせた。 「レイラ、大丈夫だ……大丈夫……レイラ……」 「イヤなの……セス……イヤなの……」 「大丈夫……レイラ……」  低く掠れた声で祈りを込めて囁き続けるセスは、時々こうして怒り出すレイラを理解できていなかった。何に怒り、涙するのか分かってはいなかった。それでもいとも容易く足元に額づいて、縋るように懇願した。それがますますレイラを傷つけると知らずに。  レイラを想い浮かべて、ただ過ぎるのを待つだけの時間。そこになんの意味もなく、なんの感情も抱くことはなかったから。だからこそセスには分からなかった。レイラが爆発させる感情がなんなのか。それほどセスにとっては無意味なことだった。 「セス……セスぅ……」  レイラもまたセスに縋りながら、抱えた想いを明確に吐き出すことはなかった。そうしたセスの献身で、生かされてきたと分かっているから。今を生きる糧はセスの血肉が対価だと知っていた。セスの血肉を対価として得た糧で、レイラは今、生きている。  身体は生きても、心は死んでいく。もうこれ以上は、耐えられない。レイラはグッと顔を上げて、セスを見上げた。 「セス……」  レイラの呼びかけに、セスは顔を上げた。月光に照らされて浮かび上がるレイラを、セスは夢幻の幻のように感じた。 「私を抱いて……セスのものにして……」  レイラの紡いだ言葉に、ゆるゆると目を見開いたセスの顔が悲痛に歪む。 「……い、やだ……レイラ……できない……! だめだ……!」  恐れるように首を振り、セスがレイラから後ずさる。美しく清らかなセスの宝物(全て)。セスにとってのたった一つの真実。生きる意味。怯えて後ずさるセスに、レイラは手を伸ばす。 「セス、お願い……」 「いやだ……ダメだ、レイラ……」  近づくレイラを恐怖の眼差しでセスは見つめた。欲望をぶつけられる時間の過酷さを、生々しい醜悪さをセスは身を持って理解していた。セスの身体は何をされても、もうなんの反応すらしなくなった。それほどまでに醜く穢らわしい時間。  自分にとって命よりも大切なレイラ。薄汚い欲望を他の誰であっても、自分でさえもレイラに向けることは許されない。  セスにとってレイラは絶対だった。陶然と仰ぎ憧憬を捧げる神聖な存在。大切に守り抜き、そばでその温もりを感じているだけで満たされる。レイラと共に生きる。それはセスにとって「祈り」だった。 「セス……」  逃げるセスにレイラは顔を歪めて俯いた。糧も心も分け合っていても、身体を繋げることを頑なに拒絶するセス。  隣にある温もりが愛おしかった。体温を伴うセスの匂いに心が安らいだ。苦痛も快楽も、悲しみも喜びも、ありのまま全てを分かち合いたかった。他の誰でもなく、セスと二人。  レイラにとってセスは希望だった。過酷な現実の中で、唯一光り輝く生きる意味。セスがいると思うだけで、心が凪いだ。セスと共に生きる。それはレイラにとって「願い」だった。 「セス……」    二人の抱えるものの違いは、似ているようでかけ離れていた。掲げたものが堕ちることにセスは怯え、レイラは同じ高さに堕ちることを渇望する。  逃げ場を失ったセスを追い詰め、レイラはゆっくりと唇を重ねた。その温もりに、その柔らかさに、何をしても無反応だったセスの身体が、呼び覚まされていく。獣から人へ目覚めたように、失ったはずの男が目覚める。  まるで不敬を犯すような恐怖に震えながらも、セスの肌は熱を帯び急速に欲望は膨れ上がって飢餓感を増す。セスは震える腕でレイラを抱きしめた。  肌を重ねる二人を照らす、中空に浮かぶ月。  セスにとって掲げて尊く仰ぎ見る月だったレイラは、中空から堕ちてセスと同じ「人」となった。神聖だった月は熱を分け合う時間を経て、手を取り合って歩む「愛する人」となった。堕ちた月はもう空に浮かぶことはない。 「ねぇ、セス……」  熱を分け合った余韻のまま、レイラはセスに寄りかかったまま夢見るように囁いた。  返事の代わりに覗き込んでくるセスは、疑いようのない愛情と一緒に、まだ少し罪悪感が浮かんでいた。小さく苦笑を浮かべたレイラが、セスの瞳を見つめたまま口を開いた。   「これからは私も街に連れて行って。私にもできるわ……」  静かな覚悟がにじむ声に、穏やかに凪いだ瞳に、セスは頭を殴られたような衝撃を感じて瞳を見開く。セスを見つめたまま小さく微笑むレイラに、思いつきではなくずっと考えていた覚悟なのだと否応なく理解する。その覚悟にセスは顔を歪ませた。 「だ、めだ! 絶対にだめだ!! どこにも行かせない!! ここにいるんだ!」  掻き抱いたレイラを震えながら抱きしめ、セスはだめだ、だめだと呪詛のように呟きを繰り返した。レイラはその身体をそっと抱きしめ、髪を撫でながら優しく囁く。 「セスにだけ辛い思いをさせたくないの。私もセスを守りたいの。最初はどうしてもセスが良かった……だからもうこれからは私も……」 「だめだ!! そんなことは絶対にさせない!! 俺はそんなことを許すために、お前を抱いたんじゃない!!」 「でも、セス……」 「だめだ!! 絶対に許さない!!」  怒りに爛々と瞳を燃やすセスに、レイラはゆらりと瞳を潤ませた。 「セスが……セスが、辛い思いをしているのに、私だけ守られてここにいろっていうの……? セスが傷ついている間、私は何もせずここでじっとしているの……? 私だってできるわ。セスのためになんだってできるの!!」 「レイラが……レイラがここにいてくれるから、俺はなんだってできる! つらくもない! お前がいてくれるから……お前の肌に触れさせるなんて耐えられない! だからレイラ……」 「私だって同じよ! 私だって、私だって耐えられない……!」 「レイ、ラ……」  やっと理解したレイラの怒りに、セスはより一層恐怖した。それが理由なら死刑宣告にも等しい残酷なレイラの仕打ちを、どう撤回させればいいのか分からなかったから。   「でも……セスを失うことの方がもっと耐えられない……だから私にも守らせて……私にも半分分けて……」  全部一人で背負うのではなく、分け合って重荷を軽くして。手を取り合って生きるために。レイラの決意にセスは顔を歪ませる。頬を涙が滑り落ち、縋りついたレイラに絞り出すように懇願した。 「頼む、レイラ……ここにいてくれ……! 俺から生きる意味を奪わないでくれ……! お前がいてくれるから……俺は……」  醜悪で退屈でセスにとってなんの意味もなさない行為。レイラと抱き合いそれが意味を持った今、なおさら許すことはできなかった。どうあっても許容できなかった。 「セス、私も……」 「……俺はもう二度と、そうやって何かを得ることはしない。絶対にだ……! だから、だから、どうかレイラ。ここにいてくれ……頼む、頼む、レイラ……! 俺と生きたいと思ってくれるなら……どうか俺を殺さないでくれ……!」  咽び泣くセスの懇願に、レイラも静かに涙を流した。レイラの頬を両手で包み込み、セスは涙を隠すことなく縋りつく。レイラが頷くまで。月光に照らされて淡く光る、その美貌を誰にも見せずに触れさせない。そう約束するまで。 「約束する……約束するから……セス、もう泣かないで……」    悲痛な嗚咽を漏らし泣きながら懇願するセスを、泣き止ませるにはそう約束するしかなかった。月明かりの下で約束の口づけが交わされる。そしてこの約束が、二人の運命の分岐点になった。  セスは傭兵になったのは、この約束を守るためだったから。一つの手段を捨てたセスに、傭兵として生きる以外の選択肢はなかった。  出兵の間、離れて暮らす日々が始まる。  命を賭けた戦に出る覚悟を、レイラはどうしても止められなかった。最初の出兵で頭角を表したセスは、どれほど金になるか、どれほどの糧を得られるかを知ってしまった。 「レイラ、心配するな。必ず生きて戻る。食料も宝石も山ほど持って帰る。今度は髪飾りを見つけてくる。お前の髪に似合いそうな、キラキラ光るやつがいい」 「そんなのいらない! いらないから……お願い、セス、行かないで……一人にしないで……!」 「大丈夫だ。すぐに戻る。木材を持ってきたんだ。家を作ろう。俺とお前の家だ。完成したらもうどこにも行かない。だからレイラ、ここで俺を待っていてくれ」  それがセスの口癖になった。戻るたびに大量の食料と、レイラを飾る装飾品を持ち帰る。調達した木材で、セスは少しずつ二人のための家を建てていく。  屋根のない路地裏、壁のない森の中。共に暮らす家を持つことに、セスはレイラがどれだけ懇願しても執着した。広くなくていい。ただ温もりを抱きしめ合って眠る、二人だけの家を持つ。戦場に行くことをレイラがどんなに止めても、セスは聞く耳を持たなかった。 「……セス、それを貸して」  戦場から戻ったセスがナイフで無造作に、伸びすぎた髪を切るのを見つめていたレイラは、セスの手からナイフを抜き取った。そのままレイラは自分の髪を一房切り落とす。 「……なにを!!」 「セス、一緒に行けない私の代わりに持っていて。戦場でセスを守ってくれるように」 「レイラ……」  セスはナイフと一緒に受け取った髪に口付けると、そっと胸元に仕舞い込んだ。そのまま麻紐で縛っていた自分の髪を切り落とし、レイラに差し出した。 「……必ず戻る。約束する。だからレイラ。それまでここで俺を待っていてくれ」  セスの髪を握りしめたレイラを抱き寄せ、セスはそのぬくもりに満足げに嘆息した。  セスが戻るたびに食料は増えた。寒さに震えることもなくなった。美しい装飾品が、レイラの髪を首元を彩るようになった。それなのにレイラは以前よりも、笑顔を浮かべることはなくなった。幸せだと口にしなくなった。  帰る家を、二人で寄り添い暮らす家を夢見ていたセスは、悲しげなレイラの孤独に気づくことはできなかった。  
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