月明かりが消えた夜(ジャスパーの手記)

1/1

10人が本棚に入れています
本棚に追加
/26ページ

月明かりが消えた夜(ジャスパーの手記)

 私は今も時々考える。何が正解だったのかと。  人は食べずには生きられないし、大切な者を大切にするのはごく当然のことだ。それこそ人らしいとさえ言える。  セス様は帰る家を望み、レイラ様にもうどんな些細な厄災も及ばないようにと願った。レイラ様は身体を売ってでも、手を伸ばせば届く距離で共に少しでも長く在ることを願った。そのどちらも間違いであったはずがない。  戦争の終結は間近で傭兵が必要なくなる未来はもうすぐそこだった。  レイラ様の安寧のために命をかけ、少しでも多くを手に入れようとしたセス様。セス様の安寧のために、一番の望みを押し殺しその心に添おうとしたレイラ様。互いに真実深く愛し合い、その全ては相手のために捧げた献身だった。  でももしかしたらほんの少し、セス様の方が心安らかだったのかもしれない。  命のやり取りをする戦場に在ってさえ、それは愛しい者のための献身だと言えた。二人で穏やかに暮らす家を持つという夢があった。自ら相手の安寧のために、行動することができたセス様。  でもレイラ様は行動は許されなかった。自分のために命を賭けている愛しい者が、心底から望んだことは他に生きる者のない、暗く深い森でただひたすら無事を信じて待つことだった。  黒の森に初めて足を踏み入れた時、ここでただ待つことしかできなかったレイラ様を思うと涙が溢れた。耐え難いほど辛かっただろうから。  初めてレイラ様の姿を見た時、過剰なほどに隠そうとしたセス様の気持ちを理解した。隠さねば危ういほどに美しかったから。  互いに一片の曇りなく愛し合い、想いあい、選び取った最善は、どこにも間違いなどなかったはずだ。  それなのに今もなお違う未来を探して私が想いを馳せ続けるのは、遺されてしまった私の耐え難い寂しさが思わせる甲斐のない思慕なのかもしれない。 ※※※※※  セス様が土気色に顔色を失って飛び込んできたのは、褒賞の分け前の話し合いの最中だった。 「ジャスパー……ジャスパー……頼む、助けてくれ……! レイラが……レイラが……!!」  滂沱と涙を流しその場に崩れ落ちたセスに、ジャスパーはセスが抱きしめている柔らかい布で包んだ中身を悟った。即座に人払いをすると、団医のカルゼンを呼び寄せる。 「……セス様、どうか手をお離しください。カルゼンに容態を確認させてください」 「レイラ……レイラ……」    気が触れたように泣き続け、抱きしめたまま離そうとしないセスの腕をどうにか緩めさせる。布をそっと解いたジャスパーとカルゼンは、現れたレイラの姿に息を呑んだ。深雪に落ちる仄かな月光のような幻想的な美しさ。 「レイラ……どうか目を開けてくれ……レイラ……」  床を這いレイラの手を握り、祈るようなセスの懇願にジャスパーはハッと覚醒した。夢から醒めたように頭を振り、カルゼンを促して、ぐったりと浅い呼吸をするレイラを見守る。 「……どういう状態なんだ?」  定宿にしている宿の最上階を貸し切って、人払いを済ませたジャスパーは診察を終えたカルゼンを別室に呼び出した。 「……現状は高熱による脱水症状です。栄養不足と長く続いた過度なストレスで、相当弱っています。おそらく生来からの虚弱体質なのだと思います」 「……持ち直せるか?」  険しい表情を俯けたカルゼンに、ジャスパーはヒヤリと心臓が冷えた。 「……幸いうちの傭兵団は物資が豊富です……ですがそもそもが長く生きられる方ではありません……」  絶望感に額を覆い瞑目すると、ジャスパーはカルゼンに詰め寄った。 「なんとかしろ、できるだけ長く……必要なものはなんでも最優先で用意する。レイラ様がいなければ……」  その先を口にできなかったジャスパーに、カルゼンも硬い表情のまま頷いた。話すことさえ稀なセスの取り乱した姿に、言葉にしなくとも意図は正確に伝わった。 「セス様には……」 「……私から話す。レイラ様のことは誰にも口外するな」 「……分かってます」  力強く頷き合ってカルゼンとジャスパーは部屋を出る。そのままレイラの部屋に向かったジャスパーは、部屋の前で立ち止まった。   「レイラ……悪かった……俺が全部悪い。すまない……すまない……もうどこにも行かない……だから起きてくれ……レイラ……レイラ……」  啜り泣きながら必死に呼びかけるセスの声に、ジャスパーは中に入ることはできなかった。ジャスパーは踵を返すと、誰も来れないように階段半ばに座り込んだ。鉛を飲み込んだように身体も心も重く、震えるような絶望感に両手で顔を覆う。  酒で聞き出してきた、ジャスパーだけが知るセスのこれまで。話すのはレイラのことだけだった。セスの世界にはレイラしかいなかったから。きっと全てを放棄する。レイラがいなければ、生きることすらも。 「どうすれば……」  ジャスパーの打ちのめされた呟きに応えはない。しかし三日後、レイラは奇跡的に目を覚ましてくれた。 ※※※※※  ジャスパーは黒の森で唯一光が差し込む、泉で足を止めた。汗を拭い、湧き水で喉を潤す。ホッと息をついて、隠れるように建つ小屋へと近づいた。  戦場でよく見かけた簡易式の拠点と同じなのは、セスが作れる家がそれしかなかったからだろう。戦場で覚えた簡易拠点を、セスが根気強く密かに運び入れていた木材で建てた小屋。訪いを知らせようと戸を叩きかけ、ジャスパーは聞こえてきた会話に手を止めた。   「レイラ……寒くはないか? オレンジがある。少しだけ食べないか?」 「大丈夫、セスが食べて……」 「レイラ、少しだけでもいいんだ」 「……ごめんね、セス」  優しいセスの声と、小さなレイラの声に、ジャスパーは俯いた。  セスは宣言通り、一時もレイラのそばを離れなかった。常に枕辺に寄り添い、縋るように手を握る。  意識を取り戻してひと月経っても、レイラはベッドを出られずにいた。果物をほんのわずかだけ口にし、ふと意識が途切れるように眠りに落ち、短いひとときだけ目を覚ます。   「……セスの手、あったかい……」 「ずっとこうして握っている。もうどこにも行かない」 「うん……セス、あったかい……」  囁くような語尾が小さく途切れ、ジャスパーはレイラが眠ったのだと分かった。  目覚めてからのレイラは生き物のいない森で過ごしてきたからか、人の気配に敏感で階下の気配にも怯えていた。森に帰りたがるレイラに、カルゼンは難色を示していたがセスはレイラの望みを優先した。街にいる時よりもずっと穏やかなレイラの声に、ジャスパーは少しだけ安心した。  街を離れたセスとレイラに、毎日薬と物資を届けにジャスパーは黒の森に通うようになっていた。 「……入ってこい」  しばらく待っていると、セスの低い声が聞こえた。ジャスパーは立ち上がると、静かに小屋の中に身を滑らせた。 「薬と食料です。ブドウが手に入りました。それとこれを……」  できるだけ音を立てないように担いできた袋を開け、中身をセスの前に差し出す。深い青の輝きをセスは嫌悪するように顔を歪め、握ったレイラの手を額に当てた。 「……いらない。そんなもののために俺は、レイラを一人に……」 「セス様……」 「お前と目と同じ色だ。権利書と一緒にお前が持っていろ」  報酬に用意された装飾品を吟味していたセス。今ならわかる。レイラへの贈り物だったと。美しい宝石で愛する人を飾りたかった。美しいレイラにとても似合うから。喜ぶ顔が見たかった。愛するが故に。その一心だったのだと。  しかし今セスは後悔を滲ませていた。宝石の輝きを嫌悪するように顔を背ける。美しいものを美しい人へ。ごく当たり前の感情からの発露だったはずなのに。  静かに眠るレイラをチラリと見やる。彼女もまた、煌めく宝石よりもセスの身を案じていた。病を得るほどに。宝石などよりセスの命に、よほど重い価値を置いていた。それもまた当然で尊い想い。 「……レイラ、すまない……お前を一人にして、すまない……」    間違いなど一つもないのに、振り絞るようなセスの声には懺悔の響きしかない。セスはまるでジャスパーに形見分けのように、全てを譲ろうとしていた。権利書も宝石も。それがジャスパーは怖くてたまらなかった。  ジャスパーは帰り道をたどりながら、何もできないもどかしさに拳を握る。  戦場にあってすら鋭く鮮烈に「生きて」輝いていたセスは、ジャスパーにとっての光で炎だった。狂気じみた強さで戦場を大剣で切り裂く戦神の姿は、今はもうどこにもない。 ※※※※※  レイラが倒れてから半年。恐れていた日は無慈悲にもやってきた。  カルゼンの努力と豊富な物資が、レイラをここまで繋ぎ止めた。それでも静かに流れ出ていく命を、押し留めることはできなかった。  ジャスパーは小屋の外で、レイラがセスのために紡ぐ最後の言葉を聞いてた。 「……ねぇ、セス……私が……眠ったら……いつもみたいに泥で隠して欲しい……」 「……レイラ……ダメだ……レイラ……」 「……ときどきは……会いにきて……オレンジが……ある時は……半分……分けて欲しいな……」 「レイラ……お願いだ……レイラ……」 「ここに、誰も来ないように……守って欲しいの……そうしたら……セスを迎えにいく……から……だから……セス……」 「ダメだ! レイラ! 俺をおいて逝くな……頼む、逝かないでくれ……」 「約束……よ……セス……セス……私ね……」 「レイラ……レイラぁ……」  掠れてジャスパーの耳には届かなかった最後の言葉。細く引き攣れた慟哭が上がり、悲痛な悲鳴にも似た嘆きが長く響く。  セスの最愛は静かに旅立った。  戦神は深淵の宵闇で仄かに優しく輝き、生きる道をそっと照らし出してくれていた月明かりを失った。  永遠に嘆き続けるかのように思えたセスは、立ち上がり動き出した。小屋から出てきたセスにジャスパーも顔を上げる。ただ眠っているかのようなレイラに、セスがそっと泥を纏わせていくのを見守る。  レイラが残したセスへの言葉。セスが中空に掲げ続けた月は輝けなくなっても、生きる道標を言葉にして残していった。  薄くまとった泥化粧が、レイラの美しさをくすませる。そっと抱き寄せて、セスは囁いた。 「……腹は満たされずとも、心は満たされていた。文字は知らなくとも、愛は知っていた。レイラがいてくれたから」    セスの囁きがジャスパーの胸を震わせる。静かで深く苛烈な愛。  セスは生きるだろう。レイラが一人遺すセスに、生き続けることを望んだから。手に入れたオレンジをそなえ、レイラの眠るこの地を守りながら。セスは生きるだろう。セスが生きるための約束を、遺していったレイラのために。  死してもなおセスを繋ぎ止めるレイラの言葉は、祝福なのか残酷な楔なのか。セスの輝きが消えた美しい瞳と横顔に、ハラハラと伝う涙を見つめる。  ジャスパーにはわからなかった。自分が大切な者を遺して逝くのなら、この残酷な時と場所に一人遺してしまうのだとしたら、それでも末期に残す言葉は、生きて欲しいという願いなのだろうか。共に逝くことを願ったりはしないのだろうか。    それからのセスはレイラの墓石にただ寄り添って過ごした。時々手に入るオレンジを供え、何も言わずにただ静かに。冷たい墓石に寄り添って、何かを待ち侘びるような瞳を伏せて。  戦神の姿が消えた戦場には、屍が積み上がった。セス不在のまま参戦した部下たちの、戦死者報告は日に日に増えていく。  もう後がないほど追い詰められていた隣国は、鬱憤を晴らすように戦神頼みだった国軍に牙を剥いた。気概の歴然とした差に戦況は大きく傾き、ほぼ制圧していたはずの国境線に、レイラの死から二ヶ月後隣国の勝鬨が轟いた。  
/26ページ

最初のコメントを投稿しよう!

10人が本棚に入れています
本棚に追加