10.

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 零の父親は、レイモンドという名の男らしい。  彼は日本に進出しようとする会社の副社長として日本を訪れ、新規出店の準備に奔走していた。  激務のあいまに「シャンプーをしてほしい」と飛びこんできた彼に三奈は目を奪われた。何度か来店するうち、いつも疲れて眠ってしまう彼にはっきりと愛情を感じるようになったという。  二人は仕事を終えると食事に出かけるようになった。彼の口からフランスに妻子がいることを聞かされても、三奈の気持ちは変わらなかった。  レイモンドはイギリス人の父親と日本人の母親のあいだに生まれ、実母とは死別している。レイモンドを連れてフランスに移住した父親がフランス人女性と再婚し弟と妹が生まれた。彼は学業を理由に早くから実家を離れたそうだ。  苦学して大学をでてコンサルタント会社に入り、尊敬する先輩と新しい会社を立ち上げた。運転資金を持ち逃げされ苦境に立たされたレイモンドを、後に義父となる人物が助けてくれたそうだ。先輩との会社を清算し、その人物の会社にブレーンとして雇われ、彼の娘を紹介された。 「その頃、レイモンドは結婚どころか恋愛にも懐疑的だった。それは自分を生んでくれた日本人の母を、悪しざまに罵る父親をみていたせいらしいわ」  そんなレイモンドに対し、雇用主の娘は「結婚は人生の契約。私は夫に対して妻の役目を果たせると思う」と言ったそうだ。結婚は恋愛の延長ではない、という彼女とレイモンドは結婚した。そして半年後に娘が生まれた。 「レイモンドとても悩んでいた。彼の妻は結婚後の夫に対して非はなかった。彼女が経営する外食チェーンで副社長になった彼を評価し、家でも彼を蔑ろにすることはなかった。生まれた娘も愛おしく思ったそうよ」  ただレイモンドの子どもではない、という一点にさえ目をつぶればよかったのだ。  妻からの謝罪はなかった。 「結婚以前の私が、あなたに対して負い目を感じることはない」と言いきった。  そんななか、日本への出店計画が持ち上がり、レイモンドはその仕事を成功裡にやり遂げることが自分の使命のように思えたという。 「彼は3年間日本にいて、店が軌道に乗ると帰国していった。そのとき、きちんと離婚して戻ってくると約束してくれたの」  三奈の右手が左手の指に触れた。  零が先日も感じた違和感は三奈の左手薬指に光る指輪だったのだ。唐突に幼い頃の光景が浮かぶ。母親が手のひらにのせたキラキラしたものを撫でていた。零が覗き込むと、内側に埋め込まれている青い石を見せてくれた。「きれいだね」と言ったら何も言わずに笑って、胸元にしまった。きっとチェーンに通して片時も離さず身につけていたのだろう。 「それが35年もかかったっていうのか? 俺のことも母さんのことも放ったらかしにしてた人を信じて、いまさらよりを戻すのか?」  零は父親への感情を持て余していた。  許すとか、会いたいとか、そんな言葉では表せないどろどろとしたものが腹の底にある。 「よりを戻すんじゃない。だって別れていないんだもの。会えない距離にいたけれど、それぞれの場所でやるべきことをやってただけ。ただ、あなたが生まれたことは伝えなかった。私がそうしたかったから。彼が帰国してから妊娠がわかって、私の精一杯で守ろうって思った。あなたに寂しい思いをさせたのは私の一存なの。ほんとにごめんなさい」 「やるべきことってなんだよ。俺や母さんより大事なことだったのかよ。それが終わったから、のこのこと連絡してきたって言うのか?」 「彼は血の繋がらない娘にも責任を感じてた。反りが合わない自分の親にも。事業を娘とその夫に引き継いで、親も埋葬してやっと身軽になったって。なんにも持ってないけど一緒にいてほしいって。あなたに話してから返事をするつもりで、まだ何も伝えてはいないけれど、彼と暮らそうと思ってる。籍とか結婚とか、もうどうでもいいけど一緒にいようって」  一緒にいられるなら、何もいらない。母親の顔から女の本音が覗き見える。でも零はそれを嫌悪することができなかった。なぜなら自分もそう思っているからだ。寿一と一緒にいられるなら、どんな形だろうとかまわない。  
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