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12.それではこれにて
鍋を手にした零を、寿一は玄関ドアをあけて迎えてくれた。
「もう夕飯食べちゃった? これ母さんが作ったやつなんだけど」
「おまえの顔を見ないと落ち着かないからな。一緒に食おう」
きっと心配で待っていたのだろうが、そうとは言わずに寿一は鍋を受け取った。
「ね、寿一さん、ビール頂戴。乾杯したい」
「ビールはあるが、何に乾杯するんだ?」
零はその質問に、ちょっとだけ考えてから答えた。
「母さんの結婚が決まったお祝い? ほんと、35年以上も結婚してなかったなんて考えられないよね。聞かされた俺もびっくり仰天だわ」
リビングのローテーブルに並んで座る。冷えたビールがグラスの表面に薄っすらと幕をはり、飲み口に繊細な泡をたくわえている。
「それはめでたいな」
零の返事に安心した寿一が、やわらかく微笑んだ。二人は軽く触れあわせたグラスを口に運び、味わうように飲み干す。零がふぅと息を吐いた。
零の頭に寿一の大きな手が伸びて、いたわるように髪を撫でてくれる。うっとりとまぶたを閉じると、そのまま引き寄せられた。広い胸に身体をあずけた零の目から、我慢していたわけでもないのに涙がこぼれる。そして悲しいのか嬉しいのかもわからないまま、どんどん溢れてとまらなくなった。
寿一がもう一方の腕もまわして零の身体を抱きしめる。温かい腕のなかで、零は物心ついてから初めて、声をあげて泣いた。
小さな子どものようにひとしきり泣くと、猛烈な恥ずかしさに身じろぎをする。
「もう大丈夫か?」
そっと腕をほどいた寿一が顔を覗きこんだ。
「ありがと。落ち着いた」
きっと真っ赤になっているだろう顔を見られまいと、零は下を向いた。
「三奈さん、結婚式はどうするんだ?」
「へ?」頭の上の方から聞こえた声に、思わず顔をあげる。
「結婚式だよ。しないのか? もしそうなら零がお祝いしてやればいいんじゃないか?」
「俺が? いや、ちょっと待って。これ本物の寿一さんだよね?」
「なんだ、俺が結婚式って言うのがそんなに珍しいか?」
「だって……」
自分のときは写真だけだったでしょ、とは言えない。
「零が複雑な気持ちなのはわかってるつもりだが、三奈さんには幸せになってもらいたいだろ? おまえが祝ってやれば安心するんじゃないかと思って」
「そうだね。ホテルのレストランでお祝いするくらいなら、俺にでもしてあげられそう。そうする。寿一さん、ありがと」
頭の中では、さっそくプランが出ているようだ。
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