2.はじまりはじまり

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2.はじまりはじまり

 23年前、その場所に2棟の家が建てられた。  地方の中核市の端っこに大きな商業施設ができて、移り住む人の多かった時期だ。テラコッタ瓦の屋根にクリーム色の壁は、家主の明るい希望を象徴していた。  70歳の夫と65歳の妻は、平屋建てに自分たち夫婦、隣の二階屋にひとり息子とその妻を迎えて暮らし始めた。しかし、老夫婦の「縁側から孫の成長を見守りたい」という願いは叶うことなく、わずか2年で相次いで旅立ってしまう。息子夫婦はあっさりと妻の実家近くでマンション暮らしを始め、2軒の築浅中古物件が売りに出された。  山名家と須藤家がそれぞれ新生活への期待を胸に移り住み、思いもよらぬ縁を結んだのは、そんな場所だった。  テレビで気象予報士が「梅雨入りしたとみられる」と言っている。空はそれを証明するかのような鈍色で、週半ばでやる気のでない朝を、ますます憂鬱なものにしていた。 「おい! まだ話が終わってないぞ」  湿気を含んだ空気とともに、窓から大きな声が流れこんできた。 「ゆうべ話したとおりだから! 朝練に遅れるからもう出るよ」  須藤 零(すどう れい)は、母親の三奈が淹れてくれたコーヒーを飲みながら苦笑いをこぼした。その声が、隣に住む山名 寿一(やまな じゅいち)と息子の一天(いちたか)のものだとわかったからだ。 「寿一さんがあんな大声をだすなんて、珍しいな」 「一天くんが、寄宿舎のある高校を受けるって先生との三者面談で宣言したんだって」 「あ、それは……」 「零、ひょっとして何か聞いてた?」  じっと見据えられ、零は視線を泳がせる。その瞳は朝日を受け灰色がかっており、彫りの深い顔立ちをよりいっそう神秘的なものにした。言葉を濁してもこれでは肯定したも同然だ。 「一天が自分で考えて、決めたことだから」  目を合わさずに言い返すと、三奈が眉をよせた。  綺麗に染めた髪をゆるく束ね、張りのある肌をした母親は、息子の目からも59歳には見えない。美容師として働きながら自分を育ててくれた、シングルマザーである。 「まぁ余所のお家のことを、どうこう言えはしないわね」  三奈は、自嘲気味につぶやくと空になった皿を手に立ち上がった。 「あ、俺がやっとくよ。予約あるんでしょ?」 「そう? 助かる」  三奈はぱっと笑顔になり階下へとおりていく。着物着付けの資格も持っており、朝一で常連のお婆さんの着付けとヘアメイクをするのだと言っていた。住宅街のなかにある小さな美容室だが、幅広い層のお客さまに支えられている。     三奈が念願だった自分の店を持つため、零とともにこの二階屋に越してきたのは20年前だ。1階は三奈の美容室と零の部屋、2階に台所などの生活スペースと三奈の部屋がある。ちなみに現在は零も美容師だ。『門前の小僧習わぬ経を読む』の例えどおり、いつのまにか美容の世界に興味をもつようになった。さらにはネイリストの資格も取り、繁華街にある大きなサロンで働いている。    窓の外から自動車のエンジン音が聞こえてきた。寿一が職場である金型製作工場へと出勤するのだろう。零も自分の身支度を整えるため部屋へ向かった。  母親は口出しできないと言っていたが、零はその夜、寿一に誘われて食事の約束をしていた。  仕事を終え大急ぎで向かった焼き鳥屋は、大将が奥さんと二人で営む小さな店だ。焼き鳥以外のメニューも旨くて零も気に入っている。  引き戸を開け店に入ると、カウンターに座る横顔が見えた。寿一は188cmの長躯で姿勢もよいので、とても目立つ。零も端正な顔立ちをしているが、寿一のそれはさらに男らしさも加わって、有名な時代劇俳優に似ている。  寿一は、零の姿をみとめると、すっと立ち上がり小上がりに移動した。やはり何か話があるようだ。零は大将に会釈すると、寿一の向かいに腰をおろした。    
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