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5.
年が明けた。
周囲の様子など我関せずに見えた一天だが、入学試験には寿一が買ってきた合格祈願の御守りを携えて向かったようだ。
バレンタインデーを翌日にひかえた火曜日の午後。落ち着かない休日を過ごしていた零の部屋へ、一天が飛びこんできた。寒さと興奮で頬を紅潮させている。
「零くん! 合格したよ!」
「おー、やったな! 寿一さんには連絡したか? 合格祝いするぞ!」
「メッセージ送っとく!」
店のほうから顔を覗かせた三奈も「今日はもう予約ないから閉めちゃおう」と言いだして、その夜は山名家のリビングで心づくしの宴となった。
テーブルには零と三奈があらかじめ準備していたと思われる桶にはいった上ネタの寿司やオードブルが並び一天を驚かせる。
「落ちてたらどうするつもりだったの?」
「そんときは残念会に切り替えればいいし。でも、ぜったい合格すると思ってた」
零は、まるで自分が合格したかのように得意満面な様子で言いきった。
楽しい宴席は、非常に珍しいが寿一が酔って眠ってしまい、お開きになった。
「ね、このあと零くんの部屋に泊まりに行ってもいい?」
零と二人がかりで大柄な父親を布団に運んだ一天は、遊び足りない子どもの顔をしている。小学生の頃まではしょっちゅう泊まりにきていた。懐かしさに零の顔もほころぶ。
「なんで零くんがそっちなの?」
一天は、セミダブルのベッドに一緒に眠ればいいのにと不満げな声をあげた。
「これから入学準備なんかで忙しくなるのに、風邪ひいたら困るだろ。それにおまえ、随分でかくなってるし」
零はベッドの下で布団にくるまっている。
「僕、でかくなってる? 父さんみたいになれるかな?」
「俺が中学生のときより、おまえのほうが大きいし、まだまだ伸びるんじゃないか?」
「中身も、なれるかな」
はしゃいでいた声をひそめ、一天の本音が透ける。
「おまえはこれまでもすっごく頑張ったし、これからも頑張れる。いい男になれるから心配するな」
「零くんみたいな?」
常夜灯を映した瞳が零を見ている。微かに揺らいでいるのは不安からだろうか。
「俺よりも、もっとずっといい男になる。保証する」
「そっか……それなら頑張ってみる」
小さな決意表明が夜気に溶けた。
それからは、一天が地元を離れるのを知った部活の後輩や女子生徒が押しかけてきたのを除けば山名家は静かだった。
寿一は黙々と仕事をして家事をこなし、入寮に必要な物を揃えた。もともと寡黙な父親の口数は以前にもまして減っていたが、一天はそれを不服とも言わずに手伝った。
「いよいよ明日だな。俺は見送れないけど頑張れよ」
3月最後の日、父親の車を洗う一天に零が声をかけた。寿一が洗車をすると翌日雨になるというジンクスがあるんだ、と笑っている。
「零くんも頑張って。父さんのことほんとに頼んだからね。もう遠慮もいらないから」
ワックスがけをしている手は休めず顔も見ようとしないが、その声は真剣だった。
「遠慮ってなんだよ」
「そのままだよ。零くんの気持ちを、抑えたりしないでってこと」
スポンジを握る手を縦方向から横方向に変えなおも塗り広げている。零は思いもかけない言葉に戸惑いながら、おずおずと尋ねた。
「おまえ、好きなやついるのか?」
「いるよ。だからわかるの」
「告白はしたのか?」
一天が手を止めて振り向いた。
「そのひとには好きなひとがいるんだ。だから言わない。でも諦めたつもりもないし、悲しんでもいない。僕はいろんな経験をして、いい男になる。それしか、今は考えられないんだ」
まっすぐな視線に迷いはなかった。
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