7.いやはや

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7.いやはや

 鬱陶しい梅雨が過ぎ、夏が訪れた。  しかし巡る季節も零にとっては記号のようなものだ。「雨ですね、寿一さん」「暑いですね、寿一さん」「運転気をつけて」「お水飲んでくださいね」  寿一は精力的に仕事をし、きちんと休むようになった。顔色もよくなり、力が漲っている。零が朝に夕に時間を見つけては訪れるので、寿一の家には零の食器が用意された。以前のようにきれいに整頓された室内から、零の朗らかな声が隣家の三奈の耳にも届く。  ためらっていたのが嘘のように二人は一緒に過ごしているが、零が気持ちを言葉にしたり、寿一が会話の奥にあるものを問うことはない。  二人でいる時間がお互いを支えていると感じるのみだ。  零は一天の真っ直ぐな瞳を思い出す。  自分の気持ちが届かなくても思いを諦めないと言いきり、強い光を放っていた。子どもだと思っていたのに、いつの間にそんな感情を抱えるようになっていたのかと驚く。  そして彼が抱える恋情が、清々しいほどの切なさと甘い疼きをもたらすものだと、零も今ならわかるのだ。    ファッションビルの暖色のディスプレイが、暑苦しい。夏休みも部活や課題学習で忙しい一天を送り出して、いつもの日常が戻っていた。  仕事を終えた零が帰宅すると、店休日で自宅にいるはずの母親の姿がなかった。友人と外食したり、同業者との会合などは書き置きがあるが、それが見当たらない。こちらも大人だからいちいちメモ書きなどいらないのだが、習慣をやめるのが落ち着かないらしい。寿一からは残業で遅くなると連絡があったので、久しぶりに一人きりだ。  とりあえず冷えた缶ビールを開け、冷蔵庫の中身を物色していると慌てた様子で三奈が帰ってきた。 「ごめんね! こんなに遅くなるつもりじゃなかったから」  見慣れないワンピース姿。髪もきれいに結い、仕事中にはけっしてつけない香りをまとっていた。 「おかえり。出かけてたんだ。メモなかったね」 「急いでたから忘れちゃって。用意するから待ってて」  さっさと部屋着に着替えた三奈は、メイクも落とさずざぶざぶと顔を洗いキッチンに立った。  焼いた厚揚げに挽肉を絡め、縦に切った竹輪にチーズとマヨネーズを乗せて焼き、ピーマンをごま油と麺つゆで炒め煮にして細かなカツオ節をまぶす。手際よく3品を並べて「もっと作る?」と聞かれたので「もう十分」と首をふった。 「私も飲もうかな」  めったに酒を飲まない三奈が缶ビールを手にしている。目の前の母親に平素は感じない違和感があるが、零にはその正体がわからなかった。    三奈は美味しそうに食べる零をしばらく見つめていたが、ビールで喉を潤すと意を決したように口をひらいた。 「今日、あなたのお父さんに会ってきた」    即座には母親の口からでた単語が理解できず、零は反応できなかった。            
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