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8.
幼い頃、零は三奈に質問したことがある。
「お父さんってどこにいるの?」
幼稚園の友だちに、家に父親がいないのはおかしいと言われた。しかし、写真一枚すら見たことのない零にはわからなかった。だから迎えにきた母親に聞いてみたのだ。
三奈は空を見上げた。
「そうね。この空のずっと遠いところ。会えないくらい遠いところよ」
母親はなんでもないことのようにさらっと答えたが、それ以上詳しいことは教えてくれなかった。だから零は「お父さんはもういないんだ」と考えた。園で大好きな飼い犬が虹を渡ったお話を読んだばかりだったので、そのイメージを重ねてみた。
以来、その話題が母子の間にでたことはない。度々遊びにきて、ときには零の面倒もみてくれた三奈の友人も、零の父親に関しては何も言わなかった。子供心にもそういうものだと納得するしかなかったのだ。
それなのに突然、母親の口からその言葉を聞いた。
「なんの冗談だよ。俺に父親はいないんだろ」
「それは……。会えない、とは言ったけれど」
「は? 会えないところ、なんて言われたら、もういないもんだと思うしかないだろ!」
零はそれ以上聞きたくなくて箸をおいた。ビールだけを持って自室に戻る。怒りで身体が震えていた。
翌朝、零は三奈と目をあわせようとしなかった。子供っぽいとはわかっても前日の話題が出るのが嫌だ。仕事は休みだが同じ屋根の下にいられず外出することにした。三奈が悲しそうな表情を浮かべたが、思いやることもできなかった。
職場の後輩へ電話をすると、遊ぶ相手もいなくて暇だと笑っている。零になついている2歳年下の津田という男だ。先輩の突然の誘いに応じてくれるその優しさに甘えることにした。
男ふたりで映画を観て、ぶらぶらと買い物をする。
「ほんとごめん。急に付きあわせて」
「先輩からの呼び出しなら断りません! 俺の練習にずっとつきあってくれたの先輩だけですから」
アシスタント時代のことをいまだに恩義に感じているらしい。零にとっても、器用ではない彼がコツコツと頑張る姿が自分の発奮材料だったのだが。
今夜は泊まってくださいと言ってくれて、急遽着替えを買う。迷惑をかけるからと、コンビニで酒や食べ物も買い、一緒にアパートへ帰った。零が悩みをかかえていることに気づかないふりをしている。その懐の深さがありがたい。
零はかつて店長職を打診されたとき「いずれ退職して母親の店を継ぐから」と断っている。三奈と具体的な話をしたことはないけれど、その気持ちは変わっていない。そんな経緯があって後輩が店長になったのだが、零に対する態度は変わらなかった。
アパートは広めの1LDKで、食事と風呂を済ませると、それぞれベッドと客用布団に寝転がる。
零は現実逃避でしかない己の行動が恥ずかしくて、すぐには眠れそうにない。そのとき枕元に置いたスマホが振動した。
外泊を連絡していないので三奈かもしれない。さすがに無視できず画面を確認すると、寿一からのメッセージだった。
『どこにいる?』
今日は一度も連絡していないのに単刀直入な文面だ。三奈から帰っていないと聞いたのだろう。心配をかけるのが本意ではないので正直に返信する。
『今夜は後輩の家へ泊まることにしました。明日仕事が終わったらすぐに帰ります』
『わかった。待ってる』
間髪入れずに返信が届く。顔をあわせれば叱られるかもしれないが、寿一に会いたくてたまらなくなった。
明日の夜、母親と話したあと寿一に会いにいこう。そう決めたら、胸のわだかまりが少しだけ解けた。
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