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1話 終わりは、始まり
私のスタートはいつも『絶望』からだ。
それでも、私は、諦めない。
それが私だから──!
──まるで時報だ。
古い洋館の長い廊下に張り巡らされた蒸気管から、15時ぴったりにカンカンと音が走りだす。
流された可燃蒸気は各所のシリンダーを動かし、歯車を回転させながら、ゆっくりと蒸気灯に青白い光を灯していく。
私はタイトスカートの裾を直しながら、学長室へ続く廊下の窓に目をやった。
まだ9月初頭だというのに、すでに夜のようだ。
渓谷と渓谷の間に隠して建てられ洋館だからだ。
隠さなければならない理由は、朧月会が運営する隠密養成学校だから、である。
私は5歳からここにいるが、13歳になる今年、隠密の私たちは各学園に派遣される。
今日は試験結果発表の日。
結果によって派遣される学園が決まる待ちに待ったとても大切な日だ。
私は学長室をへだてるドアの前に立ち、自身の名を告げた。
「壱等調査官、秘匿名、梟、参りました」
影がかかる。
音もなく横に立ったのは、黒松だ。
彼は冬北地区の朧月会から派遣されてきた。
月白色の肌に、陽の光に溶けるような金髪を襟足でまとめ、滅紫の目をしている。倭国と外国のハーフだと、自身が自己紹介していた。
いつも笑顔で物腰も柔らかく、ここへ三日前に来たにも関わらず、学園にしっかり溶け込んでいる。もちろん、たいへん女子にも人気だ。
だがなにより、彼の隠密としての知識、技術は相当だ。
試験の際、彼の身のこなしを見たが、しなやかさが私と全くちがう。
私は無駄な動きがないよう、最適な方法を計算しているのに対し、彼は流れるように動く。まるで、傀儡だ。
「えっと、壱等調査官、秘匿名、黒松、参りました」
「入れ」
ドア越しの声に招かれ、私たちは学長室へと入っていく。
大きな机の前に止まった私たちに合わせて、黒革の椅子に座る学長がゆっくりとこちらを向いた。
最年少で学長となった秘匿名・鶴。
まだ30歳にも届いていない彼は、端正な顔に表情を出すことなく、黒い手袋をはめた手で、鉛色の髪をかきあげる。
「4年もの間、壱等調査官が出ていなかったが、今年は2名もいる。この豊作の年に、僕が学長を務められたことを光栄に思う」
学長が手を伸ばした黒塗りの机には、機密書類や資料が散乱している。
書類が崩れ、朝刊が掘り出された。日付が9月2日、今日の新聞だ。“極光姫病再来か”と、白抜きの大文字が踊っている。
その下から銀色のファイルケースを抜き取った学長は、音もなく立ち上がった。
──今日の最終試験の結果で、私または彼が、朧月会の代表として碧霞学園に行くことになる。
小中高校、大学と、一貫した碧霞学園では、重要な蒸気技巧を学べる場所だ。
任務としては、歴史ある資料を違法に国外へ持ち出されないよう、監視、守り、そして一流の蒸気技巧を学び、今後のスパイ活動に活かすことがあげられる。
特に、同じく蒸気国家であるドルト国のスパイが現在活発化している。そちらへの警戒も大きい。
私は朧月会に入ってから、『ママ』が通ったこの学園に潜入することを絶対の目標にしていた。
寝る間も惜しみ、日々、必死に鍛錬を続けてきたのは、今日の結果のためだ。
あいにく彼の左手は怪我をしている。
指まで綺麗に巻きつけられた包帯が痛々しいが、一番重要な傀儡操作試験で間違いなく結果を出せていない。
怪我は試験結果に考慮されないため、彼でも少なからずマイナス点を稼いでいるはずだ。
私は肩を過ぎた黒紅色の髪を耳に掛け直して、制服である浅葱色のジャケットの背を引っ張り胸を張る。
「最終試験の結果だが、学力筆記テスト、暗号解読において両者満点。話術試験では、学生壱等調査官・梟、満点プラス。学生壱等調査官・黒松、マイナス3ポイント」
私は黒松を視線だけで見ながら、緩みそうになる唇をぐっと結ぶ。
もう私に決まったも同然だ。
最後の結果は、蒸気傀儡操作試験結果になる。
「蒸気傀儡操作試験、学生壱等調査官・黒松、満点プラス。学生壱等調査官・梟、マイナス4ポイント」
私は黒松を見た。
彼の手には、変わらず包帯が巻かれている。
「よって梟は、第二重要校である桃風蒸気技術学校へ。明後日、9月4日を予定。黒松は、第一重要高校である碧霞蒸気技巧学園へ。9月2日、本日23時に任務開始。以上だ」
黒松は髪を手のひらでなで、学長に敬礼をする。
ゆっくりと出ていく際、私を見た。
『みくびってくれてありがとう』
唇が揺れる。
彼の八重歯の端がゆっくりと吊り上がる。
目が半月をかたどり、私を見下げた。
『あんたが女でよかったあ』
たった7枚の万札を握り締めて、5歳の私を売ったあの母の笑顔と重なる。
視界が狭くなる。
腹の傷口がひきつる。
裏返りそうになる意識を、私は無理やり踏みとどめた。
私は息の仕方がわからぬまま学長室を出るが、そこで待っていたのはルームメイトの雀だった。
「……え、嘘……?」
彼女の両手には小さなクラッカーが握られている。私の合格を彼女なりに祝おうとしていたのだろう。
私はつまる息をそのままに、無理やり背筋を伸ばした。
「明後日から、桃風だ。今から資料室で学校を調べてくる」
雀はクラッカーを強く握り潰した。
小さく炸裂音がする。
頬にかかる桜色の髪が、大きく揺れる。
「あたし、学長に抗議する!」
とっさに彼女の腕をとるが、垂れ目顔に不釣り合いな大きな胸がたゆんと弾む。
私を見る雀は、悔しそうに唇を噛むと、薄紅色の大きな瞳に涙を溜めていく。
「だって……! 梟はいつもみんなを小馬鹿にして、そりゃあ偉そうにしてるけど、誰よりもずっとずっとずぅーっと努力してたもん! あたし、知ってるもんっ!!」
私とルームメイトになって4年、しっかり見てくれているのは感謝するが、調査官として気持ちで情報の比重を変えてはならない。
彼女はいつもここが欠けている。
だから、最低ランクの伍等調査官なのだ。
「……その、誰よりも努力したって、報われないこともある」
「でも、」
雀の話を最後まで聞かないで、私は背を向けた。
彼女は追ってこなかった。
資料室は地下になる。
3階の学長室から螺旋階段を降り、エントランスの反対側の扉に手をかけた。
岩盤をくり抜いたのか、歪な天井と石階段が地下へ続いている。凸凹した天井が蒸気灯をまだらに揺らし、足元は薄暗い。石壁もじっとりと湿っているので、足運びに注意する。
蒸気石を蹴ったようだ。
シュワシュワと泡を立てて転がり、小さく萎んでいく。
今頃、碧霞学園に行くのは黒松だと話が広まっている頃だろう。私が行けないことに、手を叩き、大笑いしているのが目に浮かぶ。
だが、お前たちにこの秘匿名が背負えたのか?
『ママ』が学生時代に与えられたこの名を、私は背負って……
「あ……」
気づけば石壁を殴っていた。
右手の鈍い痛みが現実を知らしめる。
血の滲む拳でもう一度殴り、冷たい階段に座り込んだ。
悔しさが涙になって落ちてくる。
笑われるのは当然だ。
自分の油断の結果なのだから。
「……足掻け、梟。絶望を武器にしろ……! 大丈夫……お前は、ママに負けないほどの賢さがあるんだ……大丈夫、だかっ……ら!」
膝を抱えて、私は絶叫した。
反響し、跳ね返る声が地下へと沈んでいく。
資料をまとめ終えた私は夕食も摂らず、シャワーにも入らず、ベッドに潜った。
夜中、黒松の見送りに数人の生徒が出ていく音を聞きながら、私はこれほどの人たちに見送られたのだろうかと思う。
改めて蔑められたようで、目頭が熱くなるのを私は歯を食いしばって耐えていた。
気づけば朝6時の鐘が聞こえ、ほとんど眠れなかった状況に舌打ちする。
体を起こすと、私の机にリンゴとクラッカーが置かれていた。
これは雀の気遣いだ。
私は大口を開けて眠る雀を起こさないよう、リンゴをかじりつつ、身支度を整えていく。
顔を洗い、制服に着替え、一度、姿見を覗いた。
唯一気に入っている黄金色の目がぼってりと腫れ、さらに少しペタついた髪に苦笑いが出る。
鏡の端にカイが映る。
しばらく会っていなかったことを思い出し、私はカイを起こすことにした。
灰色の長毛猫を模ったカイは、蒸気糸で操ることができる蒸気傀儡だ。朧月会に入ったときに『ママ』から貰った大切なプレゼントでもあるが、この土地の子どもなら誰もが一度は通る遊び道具でもある。
雀の寝返りに合わせ、カイを抱えて部屋を出ると、寮を囲む庭園へとおりていく。
ベンチに腰を下ろし、傀儡操者用の手袋をはめる。砂状にされた蒸気石を手の甲にセットすると、指先からしゅるしゅると蒸気の糸が伸び、カイに繋がった。
静かに吹き出す蒸気の音が、彼の鼓動とリンクする。
重たそうに、私と同じ色の黄金色の目が、ゆっくりと開いていく。
『……ふおあぁ、おはようさん』
猫らしく背伸びをすると、カイは辺りを見回し、髭を揺らした。
『今日は蒸気がキツいな。オレ様の胸毛がぺしゃんこだぜ』
毛繕いをはじめたカイの頭を撫でてやると、気持ちよさそうに眼を細めている。
はたから見ると、私がそうやってカイを動かしている、と思うだろう。
だが、カイはどういうわけか自我がある。
操者と繋がることで動き出す仕組みだが、私が起動スイッチなだけで、あとは彼が判断、行動し、会話をしている。
昔は丁寧にこの仕組みを話していたが、ほぼ全員が面白い冗談だと信じてくれない。
ただ雀は信じてくれている。
もしかすると、私に『信じている』と思わせているだけかもしれないが。
『そうだ、梟、試験の結果どうだったよ?』
何か言えば100倍は皮肉にして返してくる猫だ。詳しく答えたくない私は、首を横に振るだけにした。
『……まあ、オレ様を使えなかったからな。しゃーねぇ』
カイなりに私の気持ちを汲んでくれたようだ。珍しく茶化してこない。
とはいえ、彼にとっては、私が碧霞学園に行こうが行くまいが関係がない。これが一番の理由だろう。
カイはベンチに二本足で立ち上がると、霧の奥に肉球をさした。
『鶴学長だな』
カイの特技の一つだ。
私にはただの木にしか見えないが、カイには判別できるという。聴覚もかなり鋭く、音で相手の位置など簡単にわかる。
『鶴学長ってよ、頭に赤いベレー帽でもかぶりゃ、もっと鶴らしくなると思わね?』
私はその言葉に頷かなかった。
学長になった時点で、鶴という秘匿名が与えられるため、鶴らしくしろというのは、かなり乱暴な気がする。
学長の影を見ながら、私は3回、瞬きをした。
「赤いベレー帽とはどういうことだ、カイ」
ベンチの端に腰を下ろしている学長がいる。
鉛色の髪に乱れすらなく、優雅に足すら組んでいる。
『のわぁ! ななななんだよ!』
目も耳も良いカイだが、鶴学長の移動だけは見えない。今日もいつものように驚かされ、総毛立ててカイは跳ね上がった。
ちなみに、私もこっそり驚いている。
「赤いベレー帽を被った方が、学長らしいってことだろうか」
カイは太くなった尻尾を振り回しながら、学長にピンクの肉球を突き出した。
『悪口じゃないぞ、提案、だからな! だって、鶴だろ? 頭だけでも赤にしたら、めでたい感じになるだろ!』
「冬北の丹頂のようだな。頭だけだが。いいかもしれない」
蝋人形のように表情を変えず、鶴学長はカイの頬を撫でて、私に視線を向けた。
「梟、おはよう」
(おはようございます)
言ったつもりだった。
なのに、音が聞こえない。
いや、自分の声が、出ていない……?
首元を押さえて戸惑いに目を泳がせるが、学長はふうんと頷き、そのまま去っていく。
しかし、自分の身に起きたことがわからない。
出るのは、ひゅーひゅーと唸る空気だけだ。
『梟、どうしたよ? いつもなら鶴にひでぇこと言うのに、つまんねーじゃん』
反論したいが、やはり声が出ない。
焦りながら、大きな口パクで(こえがでない)と言うと、カイの毛がボッと膨れる。
カイは驚きながらも何かに気付いたのか、ポンと肉球を合わせた。
『お前、一番の隠密スキル、話術だったよな? もう能無しスパイになったんじゃね?』
ひとり爆笑するカイに、私は文字通り、言葉を失う。
原因を考えたいが、どれも自身の弱さを強調するようで、考えたくない。
ため息混じりに頭を抱えたとき、カイの耳がピクリと揺れた。
『誰か来たな』
背後からの足音に私も身構えるが、……この足音は雀だ。だが、かなり焦った足取りに感じる。
「梟っ!」
ベンチから振り返ると、雀がいつになく、胸を大きく揺らし、動揺している。
「黒松くんが……!」
涙声で伝えられた言葉に、私は固まった。
黒松を乗せた蒸気自動車が、移動中、崖から転落。
運転手含め、全員、死亡したという。
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