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ジリジリジリジリジリジリ ジリジリジリジリジリジリ 「るせぇな……」  痛いと感じる程響き渡るその声を、心の底から恨む。蝉と言う天然のアラームで目が覚めた。これは七月の中で一番最悪な目覚めだ。  そうだ。忘れないうちにさっきまで見ていた夢を反芻しよう。目を腕で覆い、暗闇の中映像を再生した。  それまで見ていた夢も同様に最悪で、どこかの高所から落ちる夢だ。文字通り、最悪な悪夢。  糸のように細い月の夜に落ちた。いや、飛び降りたと言った方が良いのだろうか。何か黒く暗い感情に支配され、それが溢れ、制御出来なくなり衝動で飛んだ。  夢なのは分かっていたが妙に現実味があり痛くて痛くて堪らない。赤く染まって行く視界と鉄の臭いはまだ覚えていて、思い出すと鳥肌が立つ。  あぁそうだ。広がって行く血溜まりの中こう思っていたな。 『一人で飛んだあいつは、』  と。  一人で飛んだあいつはもっと痛かったのだろう。あいつはもっと苦しかったのだろう。あいつはもっと寂しかったのだろう。色々な言葉が脳と言う部屋に散らかる。  思考の瓶に溜まっていくのは夢と同じような黒い雫。それは僕をただ蝕んで行くのみである。何も生まない邪魔な感情だ。  友人が死んだ。それも親友が死んだ。  なぁ、一人で飛んだお前は何を思っていたんだ。 「くっそ」  掠れた声が小さく漏れた。底無し沼のように終わりが見えない黒い感情。それに足を取られぬよう、首筋に爪を突き立て思考停止を試みる。鋭い痛みが増す代わり、逆さにした思考の瓶から黒い液体が零れていった。  このままだと溺れてしまうと、無理やり思考をチェンジする。  そう言えば昨日は。と言うか、今日は深夜二時に布団に入ったな。本当のアラームはまだ鳴っていない為、きっとまだ早朝だろう。睡眠時間は短そうだ。 「あちぃ」  目を擦る。あー、最悪だ。  扇風機しかないこの部屋には熱気が飽和していた。この暑さと騒音の中また寝るのも億劫だ。そろそろ起きよう。扇風機の雑音と蝉の声は、何故かいつも以上に大きく聞こえた。  身体を伸ばし、溜息と共に小さく唸りつつ壁側を向いた。枕元に置いてあるスマホで時間を確認する。  薄暗い部屋の一角を光が青白く照らし、時刻が表示された。明るさに慣れていない目に少し痛みを覚え、反射的に目を背けた。そして、もう一度画面に映った数字に溜息を吹き掛ける。  5:36  最悪だ。あと二十分程寝れたじゃないか。蝉のせいで僕の時間が二十分増えてしまった。朝っぱらから気分はだだ下がりだ。  そんな考えを一度脳の脇に置き、取り敢えず目を冴えさせる為に顔を洗おうと動き出した。  欠伸を一つ、起き上がって伸びをする。床を見れば、申し訳程度に身体に掛かっていた筈の接触冷感の掛布団がそこに広がっていた。それを拾いベッドに雑に投げてから、ちらりと窓を見る。 「うわっ」  小さく声を上げた。外と部屋を隔てる網戸。そこに蝉がしがみ付いているではないか。鳴き声がやけに大きく聞こえるのは、どうやら気の所為では無かったらしい。  ジリジリと必死に羽を動かす彼には申し訳ないが、流石に耐え兼ねる為小さく網戸を叩いた。 「もう来んなよ」  恨みを一杯に詰め込みながら掠れ声で呟き、息を吸う。部屋に籠る生温い空気と、早朝の瑞々しい空気がブレンドされつつ肺に溜まった。それを細く長く吐く。  また朝が来て、何かが足りない一日が始まってしまった。    一階の洗面所、冷たいとは言い難い水で顔が濡れる。その温度に蟻ほどの小さな不快感を覚えた。  ゴシゴシとタオルで顔を擦る。肌触りの悪いタオルは皮膚を多少傷つけていく。やはり痛い。  小さく息を吐き、前を向いた。三面鏡の中の不恰好な人間と目が合う。暗い目だ。憎たらしい。そんな感想を抱き、これが自分だと言う事に嫌気が差した。  もう一度蛇口を捻り手を濡らし、パイナップルのように跳ねた秩序の無い髪を撫でた。どんな寝方をしたらこうなるんだ。そう思うも、以外と従順だったようで髪はすぐに規律を取り戻す。 「ねむっ」  大きな欠伸を一つ、洗面所を後にした。  階段を登りながら舌打ちを一つ。そんな事をしても時間は戻らない訳で、せめて何かプラスになる事をしようと思い霞掛かった頭で思考を巡らした。  課題か、曲の聴き込みか、読書か、ただぼーっとするか。ぼーっとするのだけは駄目だから残りの三つで考える。……ここは欲に従って聴き込もう。  高校生活最後のコンクールシーズン。七月三十一日、地区大会が二週間後に迫っていた。下を向きながら歩く。  これまで積み上げて来たものを全て出し切る。そんな表向きの考えで崩れそうな思考を取り繕う。  今はただ一人の後悔を背負う事に精一杯で何も考えられていない。そんな事を人様に言える訳が無かった。  青字で『Kaito』と書かれたボードの掛かる部屋。それが僕の自室だ。温められた金色のドアノブを押し下げ、少し軋む扉を開けた。 「おっ来た。おはよ~!」 「……! は!?」  もはや懐かしいと感じる声に動きが止まる。 「相変わらず早起きだねぇ、海斗くーん」 「こ、航太!?」  早朝と言うのに大声で叫んでしまった。  蝉が必死にしがみ付いていた場所。その奥で死んだ筈の彼がヒラヒラと手を振っていたんだ。今までと同じような顔で、いつものように僕を呼ぶ声で、そこに居た。 「おひさ~遊ぼうぜ」  彼はおどけた表情で手を振り続けている。今の状況を何も説明せず、いかにも普通であると言う風に振る舞う彼に混乱する。  何が「おひさ~」だ。と言うかなんで二階の窓まで来れるんだよ。いや、そもそもなんで居るんだよ。死んだんじゃねぇのかよ。幽霊的な? 半透明じゃないんだな。  色々な疑問が頭に浮かんだ。その内の一つも解決しないまま、また彼は口を開いた。 「入って良い?」 「あ、え、うん……良い、良い、か」 「サンキュー」  曖昧な返事。理解の追い付いていない僕を余所目に、彼は網戸をすり抜け目の前まで来た。  少し見上げるようにして彼を観察する。  僕より数センチ高い背丈と整った顔。死んだ時と同じ制服を着て、陽気な雰囲気を纏う彼は今までとちっとも変わらない。  しかしただ一つ。網戸をすり抜けたという点を除いて。 「えとー、航太で良いのかな」 「もちろん」 「何で居るの?」 「まあ色々。てか立ち話もなんだから座らね?」 「あー、ん」  ベッドに視線を移し、「お前が言う事じゃねぇだろ」と言う言葉を飲み込む。  ベッドに腰掛け、隣に座った彼をもう一度見た。やはりどこからどう見ても生きているようにしか見えない。 「何か付いてる?」 「いや、なんでそんな普通で居れんの」 「まぁ俺的には何も変わんねぇから」 「いや、いやいやいや。え?」  変わってない訳が無いだろう。死んだじゃないか。それともあれか。実は生きていましたドッキリのようなものか?  いや、だったら網戸をすり抜けた事に対する説明はどうする。葬式にだって行った。僕が見たあれがドッキリだったとは到底思えない。  思考の渦に巻き込まれた所を航太の声が掬い取った。 「なー海斗」 「ん?」  声のトーンが急に変わり、やっと真面目な説明でもしてくれるのだろうか。そう期待する。  数秒待ち構えた後、その期待は崩れ去った。  彼はにかりと笑い、そして小学生のように言うのである。 「俺の事どー思う?」  ザッと鳥肌が立つ。  あぁ、懐かしい。いつもの顔だ。いつもの笑顔だ。この世の何よりも眩しい笑顔。僕を最強にしていたあの顔だ。  心の中に瑞々しい雨が降る。  もっと早く、彼に忍び寄る影に気付いても良かったじゃないか。なんで気付けなかったんだ。自殺するまで気付いてやれなかったのはどうしてなんだ。  後悔と名のついた黒い霧は雨を絡め取る。  「あのー聞いてます?」 「あー、うん。理解は追いついてない」 「やっぱそう?」  僕は「うん」と小さく返事をした。航太はまだ笑顔を浮かべている。そしてまた混乱する事を平気で言った。 「俺、なんか今日だけ遊んで良いらしいわ」 「は? ちょっと待てよ? まず僕から話して良いか?」 「なんすか」  そんな現実味の無い事を突然言われても理解が出来ない。既に理解出来ていないのに。  脳を追い付かせる為、ここから僕の詰問が始まったのだった。 「取り敢えず、航太なんだよな?」「うん」 「え、死んだよな?」「うん」 「一ヶ月前に死んだ杉森航太で良いんだよな?」「良いよ」 「幽霊とかそう言うの?」「そー」 「なんで半透明じゃないん?」「俺に訊くな」 「え、触れんの?」「海斗は触れないんじゃない? 掴もうと思えば物は掴めるけど」 「嘘ついてる?」「んな訳無い」 「飛べる?」「もちろん」 「中二の時の彼女の名前は?」「環奈」 「やっぱり本物か……」「最後のいらねぇよな?」  いつものように「なんの事でしょうか?」と惚けた。数秒経って笑いが空間を支配した。今までと何も変わらない会話だ。  そして歯車がやっと噛み合ってきた。と言ってもまだ謎は沢山あるが。気になっていた一番の謎を口にする。 「てか、なんで居んの」 「よくぞ訊いてくれました」  笑いの熱が収まった頃、航太は今度こそ真面目な顔つきで話し出した。 「さっきも言ったんだけど、今日だけ遊んで良いって向こうの人から言われたんよ。だから来た。あっちにはそーゆー制度があるんだってよ」 「条件とかあるの?」 「知らんッス。ただまぁ、俺の事はお前しか見えないらしいよ。向こうの人が勝手に決めたんだと」 「なるほどね。理解」 「これで理解出来んのかよ」  何故か分からないが簡単に理解する事が出来た。もちろん現実味は無い話だが、彼が言うなら間違い無いだろう。 「向こうの人ってどんな感じ?」 「口外厳禁」  話の中で一番気になった事だが軽くあしらわれた。「あっそ」とだけ返し空気感を合わせる。 「これから遊びに行くん?」 「逆に訊くんだけど一緒に遊ばね?」 「まじ? 良いの?」  イタズラっ子のようにニヤリと笑う顔も、まだ二週間しか経っていないのに懐かしささえ覚えてしまう。 「今日だけだけどな〜」 「短くね?」 「まー決まりだし」 「ならしょうがねぇ」 「何も変わんないな。その受け入れの早さ」  これには自分でも驚いているし、何故なのか分かっていない。しかしこの受け入れの早さは長所であると言えるだろう。 「あ、海斗今日学校か」 「いや蹴っても良い」 「んー、海斗くんはお勉強してきてくださ~い」 「嫌です。一日遊びたいです」 「受験生なんだから行きなさい。放課後遊ぼーぜ」  母親のように諭され、結局学校に行く事になった。放課後からなんて数時間しかないじゃないか。心の中で悪態をつく。  そして好奇心でこんな事を訊いた。 「幽霊なら透明になれたりするの?」 「もちろん?」 「みたーい」  短い返事の後、彼の身体はスっと消える。空間に溶け、擬態した。 「見える?」 「見えない」  航太が元々居た筈の場所から声がした。確かに居る筈なのに居なくて、何も無い空間から届く声に返事をする。変な感じだ。 「航太かくれんぼ最強じゃん」 「そう、なのか?」  彼はそう言いながら姿を現した。 「すげー! あれだな、カメレオンみたいだな」 「どっちかと言うとタコじゃね」  沈黙が走る。 「「どっちも違ぇか」」  二人の声が被さった。きっと透明人間の方が近いのだろうけど、何故かそれが出て来なかった。  朝なので頭が回っていない。そう言う事にしておこう。 「てかカメレオンって温度とか感情で色変わってるらしいぞ」 「え!? まじ? なんか拍子抜けだわ。僕がイメージしてたカメレオンは幻想だったって訳か……」  何故か少し悲しくなる。 「でも僕はカメレオンに幻想を抱き続けるからな」 「はいはい。好きにしろよ」  小さく笑いながら、呆れ顔でまた雑にあしらわれた。コロコロと変わる彼の表情は正真正銘カメレオンのようだった。  それからひたすら中身の無い会話をして時を過ごした。  これも懐かしい感覚だ。何も考えず、頭を使わず、気も使わない。自由で居心地の良い時間だった。  アラームがけたたましく鳴り響く。二人でビクリと身体を震わせた。六時を叫び続けるスマホを慌てて止め、二人揃って立ち上がる。  直前まで話していた今日の待ち合わせ場所を確認。 「んじゃ音楽室ね」 「はーい。あ、どっか行くの?」 「んー、科学館行きたいな〜。あと法多山とか。あ、楽器博物館とかも良いな。映画も観たいか」 「一日で巡れんのそれ。あと浜松の中にサラッと袋井混ぜんな」 「法多山行かなければワンチャン行けるんだよな。やっぱ浜松かぁ……。行ってくるわ」 「あい。行ってらー」  また緩い会話をして、航太はそのまま消えていった。  本当の朝が始まった。そして今日を生きる。やっと一日を生きる理由ができた。生きたくない理由を作った彼に、生きる理由を作られた。  大きく伸びをして歩き出す。今日の朝は最悪だと思っていたが、案外良い朝だったのかもしれない。  温いドアノブを下げた。   「おはよー」  返答は無い。誰かに向けた筈の声は、空っぽのリビングに溶けた。どうやら母はもう仕事に行ったらしい。  キッチンへ入り食事を用意する。イチゴジャムを塗ったトーストと半熟の目玉焼きだ。一人の時の定番の朝食を適当に皿に盛り付けた。 「いただきます」  小さく呟く。そして食べながらまた思考の海へ飛びこんだ。  さっきは久しぶりに会った嬉しさもあり遊ぶなんて言ったが、本当に良いのだろうか。彼の貴重な時間を僕が奪って良いものか。  そもそも本当に彼は遊びたいと思っていたのだろうか。自分の命を奪える程の黒い感情を隠していた彼だ。本当は会いたくないけどしょうがないから演技をする。そんな事は容易に出来そうじゃないか。  そこまで考えて思考を制御する。僕は親友の事も信用出来ない最低な人間なのか。そんな解釈が頭に残った。  だから先程の考えはトーストと共に噛み、消化してしまおう。僕は航太の事を信用している。そう何度も心に刻み込み、洗脳。 「ごちそうさま」  いつの間にか空になった皿に向かって言う。思考のせいもあるが、一人で食べるご飯はやはり美味しくなかった。  白い皿にへばり付く黄身のような感情。この一ヶ月、彼のせいで思考にへばり付いた黒い雫は数え切れない程あった。彼へ対する煌めく雫も、それと同様に沢山水溜まりを作っている筈だ。  あぁ、彼に対する感情はどう処理すれば良いのだろうか。水で流す事は出来ないのだろうか。  そんな事を考えながら、食器をシンクまで運び、洗う。それが僕の日課だった。  いつもより十分程早い。時間まで先程邪魔された聴き込みでもしよう。  音源、自分の録音、楽譜を何度も行き来しながら、気付いた事や課題をメモする。それが僕のやり方。  メモ帳の見開きページがいっぱいになった頃、セットしてあったタイマーが鳴る。どうやら十分経ったようだ。  立ち上がり、身支度をする。いつものように同じ作業を繰り返した。 「いってきまーす」  空虚な空間に向かって放り投げる。やはり応答は無いようで、早々に家を出た。  放課後をめいっぱい楽しむ為、今日は授業をちゃんと受けよう。鍵を掛けながらそう思った。
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