音色

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音色

 15:42  何故か早く感じた授業も終わり、待ち合わせの為音楽室へ直行した。  と言っても今日は部活が無かった為、自主練と言う名目で音楽室を開けてもらったのだ。顧問は怪訝そうな顔をしていたが、無理やり押し切った。 「居ねぇか」  室内をぐるりと見回す。そこにはグランドピアノと整列した椅子しかなかった。  どうやら航太はまだ来ていないようだ。飛べるしすり抜けられるぐらいなら、先に来て待っているぐらいの事があっても良いだろ。そう心の中で悪態を付く。  部屋中の窓を開けて周り、ふっと息をついた。 「大丈夫」  無意識のうち、何故か口から(こぼ)れ出た。落ち着きの無い心臓と荒波の感情を落ち着かせ、最近荒んだ心を強制的に癒す呪いの言葉だ。  大丈夫だと思っていれば大丈夫。口に出せば本当になる。そんな考えで今度は意識的に口に出し、また洗脳。 「大丈夫か」  荷物を壁際に置き、速歩で隣にある元第二音楽室へ向かった。十数年前に音楽室としての役割終えたらしいそこは、今や楽器置き場として新たな役目を全うしている。  立て付けの悪い扉をガタガタと開けると、生温く重い湿気った空気が僕に襲いかかった。  多くの楽器が納められた古めかしい木の棚。『ホルン』の文字と決して上手いとは言えない、まるでカタツムリのようなホルンの絵が描かれた紙が下がる段から、楽器と譜面台を取り出した。 「あちぃな~」  久しぶりの酷暑により熱されたケースを撫でながら呟く。気温の変化程厄介なものは無い。これは音程がハチャメチャな事になりそうだ。  一番下の段、隅で持ち主を待つユーフォニアムに視線を送る。恋人を待つような寂しい佇まいに胸がしめつけられた。彼女が恋人に抱えられる時間はこれから先あるのだろうか。  もう一度音楽室へ入ると、ピアノ椅子に座り音楽家の色褪せた肖像画を眺める航太の姿がそこにはあった。彼はこちらに気が付くと、おどけた調子で言った。 「あ、遅いぞ〜」 「はい? (むし)ろ遅いのは君なんだけど」 「まぁそーゆー見方もあるな」  半ば呆れて「はいはい」とだけ返す。その後机が無い為、入口近くの床でケースを広げた。  金色の煌めく曲線と、迷路のように緻密に配置された管に惚れ惚れとする。数ある楽器の中でも上位に入るぐらい魅力的な形だろう。 「今日音凄い事になりそうだな」 「そうなんだよね」  少し温いマウスピースに口を付け軽く慣らす。しかし音が二つ無い事には何となく慣れず、訊いてみる。 「吹けるの?」 「吹けるけど、いや一ヶ月吹いてないからな……」 「言い訳は良いからさ、吹こうよ一緒に」  滅多に出ない困り顔を引き出せた事に胸の片隅で達成感を覚える。「いやぁ」と口篭る彼を余所目に続けた。 「君の楽器ちゃんも寂しそうだったよ?」 「そうかぁ……」  僕だって寂しい。そんな言葉を心の中で付け加える。  本当は彼の音をもう一度聴きたいだけなのだ。悠々と流れ行く音色を。聴衆を包み込む柔らかな音色を。優しく紡がれる旋律に、ただ浸っていたかったのだ。  吹く度に出会う後悔とおさらばしたいんだ。別れの日にちが明確な今だから、今度こそ脳に焼き付けておきたい。これから一生忘れぬように覚えておきたい。  そんな心をたった一言に込めた。 「最後に目一杯吹いてやれよ」  行けた。直感で理解する。 「そうだなぁ。吹くか」 「やったー」  全ての感情を表に出さぬよう、軽く喜びを伝えた。  航太が隣へ行っている間、楽譜とその他必要な物を持って僕から見て右側。窓に一番近い席へ移動する。所謂、定位置。程良く陽があたり、風も通るこの場所は隠れた名所だ。  航太を待ちながら譜面台を立てる。立て終わったと同時に彼は帰ってきた。 「おかえりー」 「憂鬱でしかないんだけど」  溜息の後、暗い声で彼はそう言った。そんな言葉に僕は小さな笑いを添える。 「まぁまぁそんな事言わずに、ねっ」 「しょうがねぇな」  髪を掻き上げ座り、ケースを開き始めた事を確認してから、彼に背を向け音出しを始める。楽器を通して出てきた音はやはり狂っていた。 「たっかーい」 「やばーい」  解像度の悪いギャルのような会話。このノリも一ヶ月ぶり。やはり落ち着ける自由度の高い会話もあと少しで出来なくなってしまうのか。そう思うと急に寂しくなった。 「誰も来ないと良いな」 「いや本当に。僕以外からは見えないんでしょ? 他人から見たらポルターガイストだよね」 「しかも声も聞こえないからお前は一人で喋ってると思われる。確実にヤバいやつ認定されるだろうな」 「サイアクだ」  そうだ、他人から見たら楽器が浮いているように見えるのだろう。そして浮かんでいる楽器に向かって喋っている僕はヤバいやつ。  今すぐ音楽室に鍵をかけたかったが、生憎中からは閉められない。仕方がないから誰かが入ってくる恐怖に怯えながらまた音出しに戻った。 「いつも俺ここだったよな」 「うん」  僕の場所から左に三つ、前に一つズレた場所に航太は座った。懐かしい視点に口唇(くちびる)を噛む。徐々に暖色に変化する心を抱えた。  そうだ、僕はいつでも彼の背中を見てきたのだ。いつまで経っても追い付けない彼の音を追いかけていたんだ。嫉妬なんて物ではなくて、ただ単純に、羨望。  二人とも無言で地道に基礎練習を始める。この無言の時間さえも心地良い。  嫌でも耳に入ってくる彼の音に、こう思った。ゴールが見えてしまった。と。  僕らは日々成長を重ねていた。まるで徒競走のように互いに近付いては離れ、離れては近付きを繰り返していた。一生彼には追い付けないが、そうしている間は前進出来ていた。ゴールが見えないからこそ成長していたんだ。  しかし彼が前進する事は無くなった。唐突に張られたゴールテープ。その先では振り向く事の無かった彼の音がこちらを眺めている。  このゴールを抜けた後、僕はどうすれば良いのだろうか。焦燥と不安をブレンドした息を吹き込む。案の定、出てきた音は暗くて重い音。  ゴールテープを抜けたらそれをやめ時としよう。音楽から目を逸らそう。そう決意した。  暖色の心は段々と彩度を失っていく。感情に染め上げられる。 「なんか懐かしいな」  一時間弱が経って、航太が唐突に声を上げた。今更かよ。言葉を飲み込む。 「曲練習すっかぁ」 「お、見てよ〜」  目的のページまで楽譜を捲る。 「航太と吹きたかったんだけどな〜これ」 「ごめんじゃん」  ホルンとユーフォニアムのデュエットから始まるこの曲。元々は僕と航太で吹く予定だったのだ。折角二人で勝ち取ったのに、結局吹くのは僕と一年下の後輩になった。 「カナシイナー」 「思ってないだろそれ」  演技じゃない事を隠す為にわざと下手な演技をする。小さく笑い合い、吹いてみた。  何度も吹いている筈なのに一向に思うように吹けないフレーズだ。原因はきっと斜め前に居る彼。 「もうちょい重厚感あっても良いんじゃない?」 「なるほどね」  吹き終わり彼の方をチラッと見ると、そう言われた。 「やっぱ良い音出すよな」 「そう?」  久しぶりの航太からの褒めに心を踊らす。素直なその言葉は、何よりも嬉しかった。  一ヶ月前まではずっとこうしていた。どちらかが吹いて、どちらかが何かを言う。そうして僕らは成長していたのだ。 「先生ー。ご指導ご鞭撻の程、よろしくお願いします」 「良かろう。厳しく行くぞ」  声を低くして胸を張る彼の姿につい笑いを堪えられず吹き出してしまう。これでもかと言う程に睨まれた。  そうして杉森先生からのレッスンが幕を開けたのだった。 「それは重すぎる」 「三音目から四音目の切り替えがはっきりしない」 「リズム感良いなぁ、音良すぎだろ」 「E(エー)の異色感が拭えねぇな」 「安定に後半上手いな」 「飲み込み早っ。あー、あとはそうだな、感情だな」 「んー、休憩」  三十分程練習し何か変わる事を期待していたが、そうも行かなかった。勿論上達した事もある。数で言えばその方が多い。しかしあと何か少しが足りなかった。 「なー、一緒に吹こうぜ」 「ん。あ、俺で良いの?」 「まぁ。息抜きとして」 「あい」  雑な返事の後彼は椅子をこちらに向け、向かい合うように座った。  互いに目配せをして、航太が先に音を紡ぎ始める。その視線は僕を最強に仕立てた。彼が紡ぐのは重厚で荘厳な音。僕が出したいと願う、憧れの音だ。  彼の旋律に音を重ねる。驚く程自然に溶けた。ここ最近感じられなかったこの感覚に鳥肌が立つ。今まで足りなかった何かが埋まる感覚。忘れていたこの感覚。ものの数秒で理解する。足りなかったのはこれだったと。  後半は柔らかな音色でリードする。どこかで迷う手を引くように、誰かを包むようにレールを敷いた。  それに沿って流れる彼の音。僕らの音は溶け合って、混ざり合って、互いの色に染まっていく。時に離れ、時に近付く旋律。僕らの関係に音を付けるならきっとこれだろう。  窓から射し込む白い光りをきらりと反射するベル。良かったじゃないか。彼に抱かれる彼女は前よりも一層輝いて見えた。  残り二小節、また目配せ。ぶつかる視線にはやはり懐かしさが潜んでいた。それと絶対的な安心感と強さ。  最後の一音はH(ハー)。テヌートで締められた。  空間を駆け巡る余韻に耳を傾ける。細く息を吐き、呟いた。 「最高だな」 「んね。俺らって最強だな」 「そーね」  泣きそうになる心を抑えて淡白に言った。そしてそれを小さな笑いで隠す。  楽しかった。懐かしかった。寂しい。悲しい。焦燥。満たされ続け溢れ出そうな感情達を抑制。この感情もいつか消える。いつものようにひた隠す。  突然泣き出したら航太も困るだろう。寂しいとか言われても困るだろう。全ては彼を安心させる為。彼の貴重な残り数時間を楽しいもので終わらせる為。そうしてまた洗脳。 「俺も吹きたかったな」  蚊のなくような声がうっすらと聞こえた。聞こえないフリをして、心の中で同意した。 「あの、先生。他も手伝ってくれませんか?」 「ふん。良かろう」  それからまた一時間半程演奏を見てもらった。休憩と称して二人で色々な曲をデュエットする事もあった。  そんな中、何となく思い出していたのは中二の丁度この時期。  パチッと記憶が弾ける。 ♬  自主練と言う名目で借りた音楽室。真っ青な空が覗く窓辺で航太と二人、曲練習に勤しんでいた。 「何時間やった?」 「三時間半ぐらい」  左斜め前に居る航太は「そうかぁ」と言いながら大きく伸びをした。  何でも無い会話。互いに目も合わせず、ただ楽譜と睨めっこをしながらの淡白な会話だ。  彼は伸びを終えると、椅子ごとこちらを向いてきた。そしてニヤリと笑みを浮かべ楽器に息を吹き込む。  たった二音で分かる。出て来た旋律は赤い旗を彷彿とさせた。  レ・ミゼラブル『民衆の歌』  小学四年生の時、ジュニアオーケストラに入った僕らが初めて演奏した曲だ。『幼いコゼット』から始まり『民衆の歌』で締められる、レ・ミゼラブルのメドレー形式となっているそれは、紛う事なき思い出の曲。  入れと言わんばかりに視線を送ってくる彼に答え、音を紡ぐ。たった二人。たった二人だけど、流れて行くその旋律は赤く重く、まるで地響きのようだった。 「強くなった気分だわ」 「僕らって最強なのか……」  吹き終わって、笑い合う。  純粋に音の重なりを楽しむ事。ただ音の流れに身を任せる事。紡いだ音を綺麗にショーケースに並べる事。相手を染め上げ染められる事。  この感覚は忘れてはいけない。忘れたくない。  形容し難い感情に襲われる。未来の自分へ残した。「忘れるな」と。 ♬  当時の僕は、この感覚を忘れないように、と願っていた。薄情な今の僕は、結局忘れてしまった。忘れていた。  大切なもの、大事なものは無くなってから気付くのだろうか。忘れて、無くなって、何か重要な一つが足りないと嘆く。  そして思い出して気付く。あの時の僕はこれを大切にしていたと。  思い出せて良かったとつくづく思う。思い出せなかったら、と考えるだけで背筋が凍る。あとはこれを後輩と、全員とやるだけだ。 「そろそろ終わるかぁ」  伸びをして僕は言った。壁に掛かっている時計を見る。  18:37  もう良い時間だ。二人で壁際へ行き、楽器をしまった。心の中で「またな」と零す。 「これでお別れかぁ。今までありがとな」  楽器に手を置きそう言った航太の瞳は少し潤んでいた。楽器と航太。そのどちらにも同情する。不意に目頭が熱くなり立ち上がった。 「先行くわ」 「はーい」  旧第二音楽室に立ち並ぶ楽器。彼ら彼女らには持ち主が居て、互いに互いを好いている。恋人のようなその関係が切れる事は基本無いのだろう。  恋人がこの世から消えてしまうユーフォニアム。彼女は今後どんな縁を繋ぐのだろうか。余程の事が無い限り、僕はまた寂しそうな立姿を目撃するのだろう。 「楽しかったなぁ……」  自分の楽器を戻しながら呟く。今すぐ溢れそうな涙を上を向いて堪えた。深呼吸を数回してからまた音楽室へ戻った。  僕が戻ると同時に航太は隣まで歩いて行った。 「今日めっちゃ空綺麗じゃん」 「あ、ほんとだ」  戻ってきた彼は窓の方を見ながら言う。  黄色い光を浴びる大きな入道雲が窓枠の向こうに広がっていた。空はどこか濃く見えた。  二人で窓辺に行く。空と同じように、航太は澄んだ顔をしていた。ちゃんとした別れを告げる事が出来たのだろう。勝手に安堵する。  風が頬を掠めた。それは汗ばむ身体に良く効く、心地良い風だ。 「なぁ海斗」 「ん?」  いつもの調子で彼は言った。 「海斗は、海斗の流れを止めるなよ。音楽は辞めんなよ。……大切な物ってさ、無くなってから気付くんだな。この一ヶ月海斗の音が聴けなくて、海斗と話せなくて、会えなくて分かったわ。海斗の音が、海斗と過ごした時間が、海斗が大切だったんだなって」  何ともタイムリーな話だ。  黙って素直な言葉を受け取る。その何も飾らないその言葉は、何度も何度も心を突き刺していく。 「俺は海斗の音が好きだ。優しくて硝子みたいに繊細なお前の音が大好きだ。俺はもう聴けないからさ、代わりにもっといっぱいの人に聴いてもらいたい」  彼は心が読めるのだろうか。あぁ、どうしよう。数時間前にした決意がもう崩れてしまいそうだ。 「海斗の音は絶対に誰かを救う。誰かは分かんねぇけど、絶対だ。俺の大好きな、大切な音を届けてくれよ。そんで誰かを救って、晴れてお前はヒーローだ!」  こちらを向いて彼は太陽のように笑った。いつもの顔にまた刺される。そこから溢れてくる青い感情に溺れそうになった。 「これ呪いだから。一生解けない呪いだから。……届けろよ。絶対」  震える声に耳を奪われる。彼の顔が目に入ると全てが壊れてしまいそうだ。だから窓に背を向けた。  感情に溺れそうになりながら話す。 「失ってから気付くってさ、やっぱ大切なものって性格悪いよな」 「性格の善し悪しを求めるなよ」  小さく笑い合う。 「僕も一緒だよ。航太に関わる事全部が大切なものだった。もちろん今、この時も。……だからさ、思うんよね。大切な人が言ってる事ならーって」  後ろを向いて、いつも航太がやるようなイタズラ顔を浮かべてみた。上手く出来ているかは分からないが。  崩れた決意の上から、新たな決意を建てる。 「大切な人が言う事ならさ、従うしかないっしょ。辞めないよ。絶対。ヒーローになってみるわ。んで、嫌でも航太の耳に届かせる。だから覚悟しとけよ」  また笑い合った。先程よりも大きく、明るく。澄んだ笑い声に青い感情は乾いていく。良かった。泣かずに済んだ。 「おう、待ってるわ!」 「爆音で届けてやるわ!」  キラキラとした顔で空を見つめる彼が懐かしくて、ついいつもの癖でスマホを取り出し、写真を撮る。 「あ、俺写んないんじゃない?」 「え、ほんとじゃん」  そこに彼という存在は無かった。夕日の射し込む窓辺。映っていたのはそれだけだった。 「流石幽霊だわー」 「ねー凄いでしょ〜」  彼はドヤ顔でピースをする。もちろんそれもカメラに写ることは無く、記憶と言うアルバムに残しておく他なかった。  ふと後ろを見てみる。そこに影は一つしか無かった。彼はもう死んでいる。そう改めて実感した。 「んじゃ、帰るか」 「そうね〜」  開け放たれた窓を全て閉め、入口から音楽室全体を見回した。 「ここともお別れか」 「そーだよ」 「オケもだけど、吹奏楽も楽しかったな」  そう呟いた彼は、姿勢を正して頭を下げた。 「お世話になりました!」  どれだけ大きな声を出しても、その声は僕にしか聞こえない。頭を上げた航太は少し鼻をすすった。  荷物を持ち、音楽室を出てから鍵を閉めた。カチャッと無機質に響くその音に、彼は何を思っただろうか。僕には到底分からなかった。
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