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21.だいじょーぶ?
どうやら人間はみんなでご飯を食べた後、カラオケに行く習性があるようだ。
僕は歌がそんなに好きじゃないし、カラオケにはオサシミもなければ吉良くんもいないと知っている。
僕以外の人はみんなカラオケに行くみたいで、行かないと伝えたらとても残念そうだった。
女の子達に促されて連絡先を交換して、その後は手を振って店前でみんなと別れた。
今日ゴウコンに行くことは、秋山にも伝えてある。帰りはタクシーを使うようにと言われているが、どのみちタクシー乗り場は駅前なので僕はとりあえず駅の方へと向かって、一人夜の繁華街を歩いた。スマホの時計を確認するとタクシーを使えば門限には余裕で間に合いそうだった。
僕はスマホをポケットにしまって顔を上げた。道の両脇にはいくつもの飲食店が立ち並んでいて、煌々と灯りを放っている。どの店も賑わっているようで、店に入りきらなかったのか、外に並べられた即席のテーブルで立ったまま飲み食いをしている人までいた。
僕はその人たちを視界に入れつつ歩いていたら、ふと見覚えのある影が道の向こうの角を曲がった。
「吉良くんだ!」
僕は思わず、彼の名前を口に出していた。
だけど、少し距離が離れていて、僕の声は多分吉良くんに届いていない。
僕は慌てて走り出した。吉良くんの曲がった角を覗いたけど、そこにもう吉良くんの姿がない。
ニッチな飲み屋が並ぶ細い路地だ。路地は得意。歩き慣れている。僕は吉良くんを探して、あちこちを覗き込み、くねくねと路地裏を廻り巡った。
そうしていたらいつのまにか頭までぐるぐるしてきてしまった。自分で思っていたよりも、僕はマタタビ状態だったのかもしれない。
ついに駅までの道が判断できなくなり、吉良くんの姿も見つからない。
とりあえず休もうと、近くにあった自販機の横に屈んだ。膝を抱えた腕に顔を伏せたら不思議なことに、目を開けていないのに周りがぐるぐる回るような、左右にぐいぐい引っ張られるような、そんな感覚に陥った。そして、一度座ったら立ち上がれなくなってしまった。
冷静に考えるとちょっとまずい状況なのかもしれない。でも、僕は体がふわふわして気持ちいいのと、ぐらぐらして気持ち悪いの間を行き来しながら、なんだかもうどうでもよくなってきて、ここで寝るかとすら思い始めた。
ああ、でもだめだ。酔って眠って、うっかり猫に戻る瞬間を見られでもしたら大変だ。
とりあえず、人気のないところへいこう。そう思った時だった。
「おーい、お兄さーん、だいじょーぶ?」
聞き覚えのない男の声に、僕は顔を上げた。
そこには吉良くんと同年代くらいの若い男が立っている。短い金髪で、ブルーのシャツを羽織っているけど、捲り上げた袖から見える腕の皮膚に、何やら絵が描いてある。
「ケイ、どうしたの?」
「酔っ払い?」
ケイと呼ばれた金髪の男以外にも背後にもう二人男がいた。その二人は少し年上に見える。
「あれ、てかこの人、うちの大学だわ。女の子が騒いでた」
ぼんやりと上げた僕の顔を覗き込み、ケイが言った。
「へえ、偶然じゃん」
「つか、ケイが大学生なのとか忘れるよな」
後ろの二人が揶揄するように言っている。
ケイはうるせーなと笑い半分で彼らを振り返った後、また僕に顔を向けた。
「えーと、名前はわかんないな。大丈夫?何してるの?」
ケイは僕の前にかがみ込んだ。まるで子供に言うみたいだなと思ったけど、僕は言葉を発するのがめんどくさくなるほど頭がぐるぐると揺れていた。
「つか、めっちゃ綺麗な顔してんねこの人。留学生?」
「こんなとこで酔い潰れてたら連れてかれちゃうよー、俺みたいなのに」
後ろの二人もケラケラ笑いながら、ケイを真ん中にして、同じように僕の前にかがみ込んだ。
猫の姿で行動すると、たまに子供にこんな風に囲まれる。その時の気分を思い出した。
「吉良くん、探してる」
僕が言葉を発すると三人は顔を見合わせ、首を捻った。
「うーん、その人知らないけど、迷子ってことか?逸れたの?」
その問いに、僕は首を横に振った。
吉良くんを見つけて、追いかけて道に迷ったけど、迷子とか逸れたのかと言われると違う気がする。
「どーする?どうせなら、みんなでいいことして楽しんじゃう?」
「バカ言え」
ケイはそう言うと、僕の二の腕あたりを掴んで引いた。
「立てる?」
そう言われて、僕は腕を引かれながら殆どケイにもたれかかるみたいにふらふらと立ち上がった。
「どーすんの?ケイ」
「とりあえずタクシー乗り場まで送ってく」
「えー?本当にそれだけ?持ち帰るつもりだろっ」
ケイにもたれかかって俯いていたら僕は急に顎を掴まれて上向かされた。掴んだのは後ろにいた二人のうちのどっちかだけど、もう識別がつかないくらい視界がぼやけている。
「はいはい、俺の大学の人だから触んないでねー」
「なんだそれ、ずるいぞ!」
「ばーか、後で追いつくから先に店行ってて」
後ろにいた二人と別れると、僕はそのままケイに支えられて、ふらふらと繁華街の中を歩いた。一応自分の力で歩いているつもりだったけど、ケイは僕の腰に手を回していたので、もしかしたら真っ直ぐ歩けていないのかもしれない。
「まじでフラフラだけど、大丈夫?」
ケイの問いかけに僕はただ頷いた。
やっぱり足元がぐらついて、僕は気がついたらケイにしがみつくようにして歩いていた。
「ねえ、さっきの吉良くんって人は君の友達?……もしかして、彼氏だったり?」
「友達。だけど僕は好き」
「えっ?!そうなの?!てか、初対面なのにそんなこと教えてくれんだ?」
そう言って笑いながら、ケイは僕の腰に回した手を撫でるように動かした。
聞かれたから丁寧に説明したのに、普通初対面だとここまで話さないらしい。
「ね、君って男もイケんだね?友達だけど好きって、やっぱ片思い?俺と慰め合う?」
「なぐ、な、うーん、どっちでもいい……」
「なにそれ、自暴自棄?いいよ、付き合うよ。休憩してく?」
確かにすごく頭がぐるぐるするし、うっかり目を閉じたら眠ってしまいそうだ。
「きゅう…け…い?」
「うん、そこのホテル入る?」
ケイの言葉に僕は顔を上げた。
いつの間にか飲屋街ではなくて、人気の少ない路地に来ていた。閉鎖的な門構えの入り口に明かりが灯っていて、ケイはそこを指差している。
「ん、ダメだ……帰らなきゃ」
自販機の横にどれくらい自分が座り込んでいたのかわからない。早く帰らなきゃ、下手したらとっくに門限を過ぎている可能性がある。
「そんなんで帰れないでしょ?ね?休憩してこうよ」
ケイが腰に回した手に力を入れた。痛くはないけどやや強引に体を引かれる。
「い、いい……帰る、離して」
僕はケイの体を押し退けた。腰に回った手からするりと抜けて、そのまま一人で歩き出そうとしたら、今度は腕を掴まれ引き止められた。
「わかったわかった。何もしないから、ちょっとだけ休んでこ?」
そう食い下がるケイに僕は首を振った。
だけどケイはなかなか僕の腕を離してくれなくて、僕はやむなくその手を強く振りといた。ケイの体が揺れたけど倒れるほどではなかった。
僕はそれだけ確認すると、急いで向きを変えて走り出した。だけど、たぶん足元がふらついて、そんなに早く走れていない。「待ってよ」と呼ぶケイの声が背後でしていて、僕は焦ってしまった。
次の角を曲がって、路地の隅に体を寄せたその瞬間、僕は猫になってしまった。無意識に四つの足で早く走ろうとしてしまったのだ。
幸い路地に人気はなくて、ちょうど曲がった瞬間だったから、ケイにも姿を変える瞬間は見えていなかっただろう。
僕は着ていた衣服、持っていた荷物を全て投げ出し、ふらふらと人が入ってこれないような、建物の隙間に入り込んだ。
追いかけてきたらと思うと怖くて怖くて、何回も道を折れ曲がって、柵を登ったり降りたりを繰り返した。暫くして振り返ると、そこにはもうケイが追いかけてくる気配は無い。
すっかり疲れてしまった。しかも、道がわからない。僕はとりあえず路地に出た。
「おー、猫だ。よしよーし」
後ろから触られて、僕は背中を跳ね上げた。
「主任!引っ掛かれたら危ないですよ!」
僕の背中を撫でた頬を真っ赤にした中年のスーツ会社員は、部下らしき男に引き摺られていった。
怖かった、びっくりした…と後ずさったら、今度はお尻が何かに触れてしまった。
「にゃぁっうっ!」
「わ、猫だ!しっしっ!」
今度は真っ黒いスーツを着た若い茶髪の男だった。咥えタバコで、化粧の濃くて派手な女の人も一緒にいる。
お尻のあたりを足で押されて、僕は体を跳ね上げ、前足で地面を蹴った。
フラフラだけど必死に走って、路地の隅の植え込みの中に飛び込んだ。
いつもなら猫の姿で人間をあしらう事なんて慣れてるはずだ。それなのに、今日はうまくいかない。たぶんまたたび状態のせいだ。
僕は植え込みの中で姿を隠すように体を丸めて蹲った。
道もわからないし、服もないから人間に戻れない。このままここで暫く休んで、早朝になればきっと人が少なくなる。そしたら、服を探しに行こう。門限破って秋山に怒られる。お酒にも気をつけろって言われたのに……
「あれ、猫だ」
その声に、また見つかったと体をビクつかせ、僕は顔を上げた。
「え?どこー?」
「植え込みの中」
僕の丸い目は、しっかりとその人を見上げていた。可愛らしいポニーテールの女の子を連れて、植え込みを覗き込むようにこちらを指差しているのは、吉良くんだった。
僕はその名を呼びたくて仕方がない。だけど、今僕は三毛猫の姿だ。吉良くんは僕が僕だと気づいていない。
「にゃぉーん…」
気がついて欲しくて、小さく鳴いた。
「なんか、不安そうだなこいつ」
吉良くんは膝を折ってしゃがみ込み、植え込みの中に恐る恐る手を入れてくる。ポニーテールの女の子もスカートを押さえながら吉良くんの隣にしゃがみ込んだ。
「人間怖いんじゃない?あんまり触らない方がいいよ」
女の子の言葉に吉良くんは「うん」と気のない返事を返している。
そのまま手の甲を僕に向けて、鼻先に折った人差し指の第二関節のあたりを近づけた。
少し濡れた僕の鼻先が、吉良くんの手に僅かに触れる。吉良くんの匂いだ。
僕の視界がじわりと揺れて、目から涙が溢れ出した。
「にゃぅっ」
「ほら、怖がってるって、やめてあげよ?」
「うーん、わかったわかった」
女の子の言葉を受けて、吉良くんはその手を引っ込めた。僕は植え込みの中に体を伏せたまま、二人を見上げる。
吉良くんはもう僕に興味をなくしたみたいだ。立ち上がるとすぐにこちらに背中を向けて、向こうの方へと歩いていく。ポニーテールの女の子が歩きながら親しげに吉良くんの腕に体を寄せていた。
僕は心細くて、吉良くんの隣にいる女の子が羨ましくて、気がついたら前足にぽろぽろ涙がこぼれ落ちていた。
掠れるような声でもう一度鳴いてみたけど、吉良くんは振り返ってくれなかった。
そこからどれくらい時間が経ったかわからない。涙はおさまり、鼻水で汚れた鼻がかぴかぴだった。
僕の目の前にずいと姿を現したのは、相変わらず怒り顔の秋山だった。いつものコロコロは脇に挟んで手には僕のリュックと服を持っている。
「まったく、とんでもねえやつだな。あれほど酒に気をつけろって言ったのに」
ぷんすかしている秋山に、僕は植え込みから飛び出して、胸のあたりにとびついた。衣服に爪を立ててしがみつくと「イテテ」と声が降ってきた。秋山の腕が僕の衣服を下げたまま、お尻のあたりを抱き上げ、僕はその胸に顔を埋めて、ぐりぐりと鼻先を擦り付けた。
いつもは「毛がつくだろ」と怒る秋山が、今はただ背中の毛を撫でている。
「帰るぞ」
そう言って、秋山は僕を抱いて歩き出す。
体を包むおこりんぼの秋山の匂いと体温に、この時僕はひどく安心して、息を吸って目を瞑った途端、意識を失うように眠りに落ちていった。
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