いい薬

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 給料はお世辞にもいいとは言えないが、定時に帰れるというのだけは気に入っている派遣業務。ときおり目薬を差しながらその日の事務処理を終えた美弥は、正社員に「お疲れ様です」と言って定時帰宅することとした。  制服すら与えられず、さっさと帰る美弥。駅前は派遣社員かホワイト企業の社員で溢れかえり混雑している中、ひときわ背の高い美しい男性が「美弥」と手を振った。  嫌味じゃない石鹸の匂いは営業のためだろう。  最近付き合いはじめた卓である。 「お疲れ様。今日も予約してたんだ。美弥が食べたいって言っていたイタリアン」 「嬉しい! あそこ全然予約取れなかったんですけど、取れたんですね?」 「営業でコネだけはいくらでもあるから」  彼の働いている企業を考えれば、そりゃレストランの一件二件にもコネが効くのだろうと思う美弥。  仕事ができる上に、世間話で言った本人すら忘れているようなことでもよく覚えていて、仕事が忙しいときだと励ましに差し入れをくれる。記念日になったらさらりとごちそうをしてくれる。 (世の中、こんなスマートにデートできる人って本当にいたのね)  恋愛経験がお世辞にも豊富とは言えない美弥は、最初は誰かと勘違いしているのではと思っていたものの、徐々に絆され、今ではすっかり首ったけになってしまっていた。  出かけたイタリアレストランで、甘い白ワインとフレンチとイタリアンのいいとこ取りな料理に舌鼓を打ちながら、世間話をする。 「へえ……妹さんがもうすぐ結婚」 「そうなんです。だからお祝いを贈って、私も参列する予定なんですけど」 「じゃあ妹さんにお祝いの品贈らないとね。よかったら一緒に見に行かないかな?」 「え……私、結婚式のお祝いとかってなに贈ればいいのか全然わからなくって。よかったら見てもらえますか?」 「自分でよかったら。お客様の話くらいでしか聞いてないけど」  会話にもそつがなく、あっちこっち飛ぶ話題にも全部乗ってくれる。ますます美弥が夢中になってしまうのだった。  彼が最寄りの駅まで送ってくれ、最後にタクシー代まで出してタクシーに乗せてくれたときには、「この人と結婚できたらいいなあ」とまで思いはじめるのだった。  ワインのほろ酔いで足取りもふわふわ軽やかに帰宅する中、美弥は自宅のアパート前に大きな車が停まっているのが目に留まった。大学時代から住んでいるアパートは、元は学生専用のアパートだったのが、古過ぎたせいで今では住んでいる人全員物好きなため、案外居心地がよくてそのまま住んでいたが。 (あんな車に乗ってる人と知り合いそうな人……うちには住んでなかったような)  住民とはほとんど顔見知りなため、意味がわからず美弥が困る。そのまま車を通り過ぎようとしたら。 「崎守美弥さんってあなた?」  いきなり車の窓が降り、ピリリとした声をかけられ、美弥は驚く。  顔を出したのは、年齢不詳の美女だった。化粧は女優メイクで、唇だけやけに赤い上にナチュラルに見えるくらいにつくり込まれた素人では絶対に無理な化粧。上半身から下は暗くてよく見えないが、上半身に見えるのは最近通販サイトで見た高級ブランドのワンピースに酷似していた。 「は、はい?」  無視すればよかったものの、突然名前を呼ばれて驚いたこともあり、美弥はついつい返事をしてしまう。美女はトゲトゲとした言葉で告げてくる。 「うちの主人に言い寄っている女とはあなたのことですか?」 「はい?」  その美女の夫と付き合っていたら、それは不倫ではないか。美弥には覚えがなく、「知りません」と素直に首を振る。  すると美女はいきなりなにかを差し出してきたのだ。今時珍しい現像された写真だった。それを見て、美弥は喉からワインを吐きそうになった。 「……卓さん」 「主人は若い子と遊ぶとき、私に見つかるまでの間いくつもの顔や立場、名前で引っ掛けます! 迷惑なんです! あなたのことは興信所で徹底的に洗いました。あなたは主人をたぶらかした罪を、しっかり自覚なさい!」 「ま、待ってください! 私、本当に不倫するつもりなんて! 別れます! 別れますから!」 「若い子はだいたいいつも自分は悪くないと言うんです! 不倫は、したほうが悪いに決まっているでしょう!?」  騙されたほうが罪なのか。  美弥の言い訳を聞かず、美女はそのまま車を走らせて去ってしまった。美弥は必死に卓に電話をしようとスマホを取り出したが。 「……今かけた電話番号は現在使われておりません」  唐突な美女の出現は、美弥がなにもかもを失う前兆であった。
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