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ショックでなかなか寝付けないまま、日付が変わって夜も明けてしまった。眠気とショックで重い体を引き摺ってどうにか会社に行こうと準備をしていたところで、スマホが鳴った。
点滅している電話は派遣会社の担当からのものだった。
「はい、崎守です」
「崎守さん、君ハロナグループの社長夫人になにをしてくれたの!?」
「は、はい?」
ハロナグループは、美弥が利用している派遣会社の親グループだ。そこの社長夫人と言われても、と考えたとき、あの大きな車に運転手付きで乗っていた美女が頭に浮かんだ。
卓は身分詐称をすぐやらかすとも。
(まさか……)
担当は嘆き声を上げていた。
「社長をたぶらかした、即刻君を処分しろって、昨日鬼電があって……本当に申し訳ないけれど、まだ少し期日残っているけれど、派遣打ち切りだから!」
「ちょっと。待ってください! 給料は!?」
「今月出た分は期日には支払うから! それじゃあね!」
そのまま切られてしまった。
いくらなんでも無茶苦茶過ぎる。そう思って美弥が泣きそうになっている中、今度は実家から電話がかかってきた。
「美弥……あなた、不倫していたの?」
「お母さん。ちょっと……なんで?」
「昨日ね、うちに写真を持ってハロナグループの奥様がいらっしゃったの。そのせいで、あの子結婚取りやめになりそうなの。社長夫人を敵に回したくないって、向こう側が」
「ちょっと、ちょっと待って! あの子は関係ないじゃない!」
「……あのね、美弥。付き合う人は選びなさいって、いつもいつも言っているでしょう? お父さんはカンカンで、もう絶対にうちの敷居は跨がせないって。ほとぼりが冷めるまで、うちに帰ってこないでね」
「ちょっと待って! お母さん、本当に違う!」
美弥の言い訳も聞かず、母にまで電話を切られてしまった。
(私が……私が騙されたって話は、誰も聞いてくれないの?)
卓が遊ぶために詐欺を働いていたなんて知らなかった。既婚者だったら近付かなかった。
そう言っている中、今度はトントンと控えめに玄関の扉が叩かれた。まだなにかあるというのか。
美弥が心底うんざりしている中、ためらいがちな声をかけてきたのは大家であった。
「崎守さん、ちょっと大丈夫?」
「あ、はい。なんでしょう?」
美弥は訳ありしかいないこのアパートでも家賃滞納を怠らない有料店子の自負がある。そんな自分にわざわざ会いに来たのはなんだろうか。
美弥は大家を玄関の中に招き入れると、小さな大家がより一層小さく見えた。持っているのは大手デパートに入っている有名菓子メーカーのものだった。
「……本当は二ヵ月前には言わないと駄目なんだけど、本当に急に立ち退きになっちゃったのよ」
「はい?」
いくらなんでも。
昨日の今日で既に職も家族も失ったばかりだというのに、あんまり過ぎる。美弥は頭が回らない中、なんとか言葉を捻り出す。
「どうしてですか?」
「わからないの。うちの地主にいきなり立ち退き要求が来て……他の店子さんにも今連絡が入って大騒ぎになっていて」
大家は既に夫を亡くしてひとりでアパート経営をしていたというのに、突然の話で顔面蒼白になってしまい、唇まで真っ青に震えてしまっている。
その人にはもうなにを言っても追い打ちをかけるだけだということを、嫌でも美弥は思い知った。
「……わかりました。今まで、お世話になりました」
衣食住足りて礼節を重んじる。
美弥はたったひと晩のうちに、これら全てを失ってしまった。なんとか学生時代に使っていたカートに生活用品を全部持ってきたものの、これからどうすればいいのかがわからない。
(私……ここまでされないといけないこと、したの? 騙されたのは私なのに、どうして……?)
しかし相手は大手企業の社長にその妻。相手が巨大過ぎて話してもまず誰も信じてくれないし、その相手を知っていたら誰も助けようとも思わない。
今は真昼間で、普通の人は働きに出かけている。路地を歩いているのは買い物に行く主婦か大学生しかいない。その中、美弥は途方に暮れてよれよれと歩いていると。
「お嬢さん、お困りですか?」
普段であったら無視する、怪しい声だった。
現状の美弥は普通ではなかったため振り返ってしまった。黒いスーツに黒いコートは時代がかっていて、まるで昭和の映画スターのようだ。
昨日はいきなり美女に罵倒されて、今朝に衣食住を失ったばかりだ。もうなにも怖くはないと、美弥は「はい」と答えた。
「私、いきなり不倫だと罵倒されて、仕事クビになって、家族と絶縁しかかって、アパートも追い出されてしまったんです」
それだけされたという事実を思い知り、ようやく美弥は涙が出てきた。
好きになった相手が悪かった。理屈で言ってしまえばそれまでだったが、そこまでされないといけない意味がわからなかった。美弥は声を上げて子供のように嗚咽を漏らしはじめたのを、黒スーツは黙って見ていたら、やがてひと言「ふむ」と言った。
「いらっしゃい。薬をあげましょう。幸せになれる薬ですよ」
これが普段の美弥であったら、「大変なことになる」と速攻で逃げ出していただろうが、今の彼女は自暴自棄になっている。もう守るものがなさ過ぎて逆に無敵だ。
だから黒スーツにひょこひょことついていってしまった。
たしかに、くれる薬はいいものだったが、別に白くて違法なものではなかった。
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【黒沼美容整形】
古くて平成通り越して昭和の建物だらけな路地をぬって到着したより一層ボロボロの建物に掲げられた看板に、思わず美弥は黒スーツを見た。
危ない薬のバイヤーには見えても、医者には見えない。
黒スーツ……黒沼は顔を竦めた。
「うちには意外と芸能人も来るんですよ。表立って整形したら、週刊誌にあることないこと書かれますから。いらっしゃい」
そう言われて美弥は恐々とついていった。
中からは何故か焼き肉の匂いがする。レーザー手術をすると人の肉の脂でそんな匂いになるらしい。どこかで聞いた話をぼんやりと考えていて、肝心なことを言わなければいけなかった。
「私、手術をしてもお金はありません」
「ああ……そう取られましたか。心機一転赤の他人になったら、人生やり直せると。半分は当たっていますが、半分は正しくはありません。あなたに求めているのは試薬……うちにたびたびやってくる美容の薬のモニタリングの仕事を依頼したのですよ」
「……薬、ですか?」
「はい。世の中整形で芸能人の誰かのようになりたい、もっと美しくなりたいとおっしゃる方々が足を運んできますが、中には物理的に不可能な方もおられます」
「物理的……お金の問題ですか?」
「もちろんそれもありますが。世の中には骨格の問題で、お客様の願望に沿う顔にするのが不可能な方が存在します。もしそれでも無理矢理するのでしたら、骨格を削ったり逆に足したりして手術する必要があり、全ての手術を終えるとなったら、うちの病院を土地ごと買える値段を支払う必要があり、実用的ではありません」
それに美弥は呆気に取られた。いくらボロボロの病院とはいえど、それを買い取らないといけない金額の手術費なんて、美弥のかつての年収を越えているに決まっている。
「そこで」と黒沼はなにかを出した。
「製薬会社が美容液の研究の最中で、骨格を柔らかくすることで整形しやすくなる薬を偶然開発に成功させたんです。ただ骨格を柔らかくして好きな顔に整形できるなんて技術、表で知れ渡ったら悪用されるに決まっていますからね。それで、あなたにモニタリングをして欲しいんですよ」
「……私になにをさせたいんですか?」
「いえ? あなたを陥れた方々に復讐する機会です。顔を替え、新しい戸籍を用意するところまではお手伝いできますが、私ができるのもここまでです。あなたが誰にどのような形で復讐を果たすかは、あなたが好きになさってください」
新しい顔、新しい戸籍。復讐の機会。
元々の美弥は大人しく、今をそこそこ楽しく生きられればいいというよくも悪くも欲がない性分であったが。その欲のない人間が全てを奪われた。
金持ちの道楽のために。嫉妬のために。そいつらから全てを奪って、なにがいけないというのか。
「……わかりました。薬のモニタリング、お受けします」
ただより高いものはない。それでも、無欲のまま奪いつくされるよりはずっとマシだった。
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