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平成資格バトル
マンションが立ち並ぶ駐車場で師走の朝、ゴミ出しに向かう主婦が偶然その物体を発見した。近寄ってよく見ると、それは三十代くらいの男性の死体だった。マンションの屋上から飛び降りたらしく辺り一面に血しぶきの跡があり、見つけた時はすでに絶命していた。
主婦は気が動転していたが冷静さを取り戻すと、近隣の住民を呼んで警察に通報してもらった。パトカーが来るとあたりは騒然となった。所轄の係員たちによって手際よくロープとシートが張られ、現場検証が行われた。マンションの住人たち好奇心からいろいろな詮索をしたが、素人目には誰もが自殺で間違いないと思った。
このことはその夜のテレビのニュースで何度か報道されたが、都会の片隅で起きた小さな事件のひとつに過ぎなかった。
「黒木、また会社辞めたらしいですよ」
鰓が大きく張った野角浩一が吐き捨てるように言うと、金村忠義は鷹揚にうなずいた。
「まったく性懲りもねえ野郎だな。あいつ、いったい何を考えているんでしょうね?」
野角の話を聞いて、透かさず合いの手を入れたのは最近、急に白髪が目立ち始めた藤田真之だ。
土曜の昼下がり、図書館から出てきた三人は桜が散り始めた日比谷公園のベンチで一息入れることにした。野角は元々銀行マンだが今は系列のカード会社に出向中で、今年で四十歳になる。自称、流通業コンサルタントの藤田は野角よりも四、五歳年上だ。金村は定年間際で証券会社から肩を叩かれ、関連会社に転籍になったばかりだ。三人は年齢も業界もバラバラだが、同じ中小企業診断士を目指している受験仲間だった。
三人が資格を取ろうと思いたったのは、奇しくも日本がバブル景気に沸きかえっていた頃だった。都内の資格スクールの受験講座で知り合った三人は今年で三度目の受験になる。
同じ講座に通っていた黒木誠もまた、今年で三年目の夏を迎える。
東京の私立R大を卒業後、唯一内定が出た食品卸売会社に就職できたのは幸運だったが、会社は景気とは裏腹に業績が低迷し始めた。将来に不安を感じた誠は中小企業診断士を目指すことにした。誠の仕事は営業で外回り、夕方に営業所に戻ると事務作業があり、毎日残業続きだった。毎月厳しいノルマがあり、達成できないと部長から朝礼で叱責された。実際は学校に行くことすら難しく、受験勉強は一向に捗らなかった。
誠はこのままでは資格が取れないと思い二度目の試験に失敗した後、思い切って転職した。そもそも、もっとよい条件の会社に転職するために資格取得を考えたのに、資格取得のために会社を辞めることになるのだから人生とは皮肉なものである。営業から離れるために内勤の仕事を選んだのだが、不慣れな仕事は予想以上にストレスが溜まった。気付くと受験用のテキストを半年以上も開いていなかった。誠は受験は今回で最後と決めていたので、受験に専念するため転職した会社も三月末で辞めることにした。
たとえ自己都合と言っても、会社を辞めれば失業保険を受給する資格がある。誠は人目を忍んでハローワークに失業保険の申請に向かった。待合室には髪を赤茶色に染めた水商売風の女がタバコを吹かしていた。その隣では朝っぱらから酒臭い息をした中年の男が順番を待っていた。誠は思った。世間ではバブルだ、芝浦にジュリアナ東京ができたとか、能天気なことばかりほざいているが、この場所は人生の吹き溜まりだ。
誠は結局、失業保険の申請をしなかった。
今から失業保険を申請しても受給されるのは早くて半年後だ。それでも働かなくても金が入ると思うと、自分に甘えが出そうな気もした。誠は二次試験が終わる半年後まで貯金で食い繋ぎ、新たに道を切り開くつもりだった。
中小企業診断士はビジネスマンにダントツに人気のある国家資格である。
以前、ある新聞社が調査したところ取りたい資格ナンバーワンに選ばれた。有資格者はエリートと見なされる場合も多く、専門分野で相応の実績を積めばコンサルタントとして独立開業も夢でない。誠もコンサルタントという職種に憧れを抱いていた。しかし、現実はそう単純ではなさそうだった。診断士を目指す人間は、会社でドロップアウトした人間も多いという噂を頻繁に耳にするからだ。穿った見方をすれば、中小企業診断士とは敗者復活戦のイメージが拭えない資格でもあった。
会社を辞めることは父の信三が許さなかったから、誠は親元から離れ横浜市内にワンルームのアパートを借りることにした。駅から多少遠いのが難点だったが、閑静で勉強するには打って付けの環境だった。家賃七万二千円は正直痛かったが、背に腹は代えられなかった。誠は引っ越してきた当初、十万円で買ったオーダーメイドの十五段変速の自転車で通勤していたがある日、パチンコ屋の前にカギを掛けて置いていたところ帰りには盗まれていた。誠はなけなしの金を叩いて、駅前の西友で二万五千円のママチャリを買った。
誠の生活は一人暮らしで一転した。朝食はトースト一枚、昼はコンビニの弁当、夜は近所のファミレスか中華料理屋の定食などのお決まりのメニュー。ワンパターンの食事に飽きてたまに自炊することもあったが、食材を買いに行って料理を作り片付けるのには何時間もかかるのに、食べるのは一瞬なのがバカらしくなり、よほど気が向いた時しか料理をしなくなった。
しかしこんな底辺の生活でも、誠には資格を取ってコンサルタント会社に就職をするという確固たる目標があった。一次試験までは正味四ヶ月しかなかったが、誠は自分ならそれだけあれば合格できる自信があった。
誠が一人暮らしを始めたアパートに野角から電話があったのは、つい先日のことだった。関西出身の野角は早稲田の法学部を出て、業界最下位の都銀に就職した。いつもエリート風を吹かしていたが、数年前仕事で何か大きなミスを仕出かしたらしく、現在はカード会社に出向中の身の上だ。
誠が電話を取るやいなや、野角が話し出した。
「黒木さん、会社辞めたんだって?」
「なんで、知ってるんですか?」
「この前、黒木さんの会社に電話したら、『黒木なら三月一杯で退職しました』って女の子から聞いたからさ」
誠は内心余計なことをしてくれたと思いながら、冗談交じりで野角に念を押した。
「仰るとおりです。でも、会社辞めたことは金村さんだけには言わないでくださいよ」
金村は誠が転職した頃、頻繁に会社に電話を掛けてきた。
誠はその時、安易に名刺交換したり、電話番号など教えなければよかったと後悔したくらいだ。しかし、誠が危惧していたことはすぐ現実になった。野角から電話があった数日後、金村から電話が掛かってきた。
「わしや。金村や。野角からあんたが会社辞めたって聞いたんで、どうしてるかと思って」
誠はその時、野角が誠との約束を破って、金村に話をしてしまったのだと思った。
「そのとおりです。会社を辞めて今、診断士試験の勉強に専念しています」
「まあ、元気出して頑張れや。俺たちもできるだけ、あんたをサポートしてやるから」
「ありがとうございます」
野角に対しては、自分が会社を辞めたことを話さないでくれと頼んだが、誠は金村からの電話が思いの外、嬉しかった。誠のように一度世間からあぶれてしまった者を気に掛けてくれる人間が世の中にたった一人でもいると思うと目頭が熱くなるのを感じた。
誠の中で、今まで受験仲間の一人に過ぎなかった金村のポジション一気に上がった瞬間だった。昭和一桁生まれの金村は誠の親と同年代である。誠は金村のように自分を応援してくれる人のためにも、今年こそ絶対に合格を勝ち取らなければならないと心に誓った。
世間はゴールデンウイーク真っ只中で、「やれ、海外旅行だ、ディズニーランドだ」と浮かれていたが、誠は変速機のない重たいママチャリを漕いでスーパーに買物に行く以外、アパートから出ることなく一人黙々と勉強を続けた。
お祭り騒ぎのゴールデンウイークが明けた週だった。金村から突然、電話があった。
「あんたに耳寄りな話があるんだけど」
金村は以前、九州の人間だと本人から聞いたことがある。独特な言い回しや自分のことをいつも「わし」と言うのは九州出身のせいではないかと誠は勝手に想像していた。
「なんでしょうか?」
「ウチの会社で今、若手社員を募集しているんや。それで、あんた、受けてみる気ないかと思って」
金村は関連会社を辞めた後、比較的名の通ったシンクタンクに転職したと聞いている。
「いいえ。せっかくですが遠慮しておきます。僕は資格試験に専念するため会社を辞めたので今、就職する気持ちはまったくありません」
「ところであんた、今いくつや?」
「三十一ですけど」
「ギリギリやなあ。でも、わしから人事に話を付けてやるから心配するな。任せておけ」
どういうわけか、一方的に誠が金村の会社を受ける方向で話が進んでいる。
「いいえ。お気持ちはありがたいですけど、本当に結構です」
話がこれ以上長引くと面倒なことになりそうだったので、誠は丁重に断った。誠の意志は固かったが会社を辞めた後、不安がないわけではなかった。無職のため預貯金を取り崩さる負えない経済的事情に加え最近、外食中心の生活で健康面にも不安があった。しかし、すべて自分で決めたことなので日にちが経つにつれ、そういう生活にも次第に慣れてきた。今まで多忙で手を付けられなかった問題集にもじっくり取り組むことができるようになった。誠に足りなかったのは要は勉強時間だった。資格試験にだけに専念して二ヶ月余り、誠は飛躍的に力が付いてきたことを日々、実感するようになっていた。
数日後、また金村から電話があった。
「この前の件だけど、わしから人事課に話を通しておいてやったから大丈夫や」
「えっ? 僕、会社を受けるなんて一言も言ってないですよ」
「でも、あんた今、収入ないんやろ。悪いことは言わないから受けるだけ受けてみろって」
今、就職なんぞしたら今年も試験に失敗してしまうのは明らかだ。しかし、誠は断る気持ちがある一方、自分のためにここまで尽力してくれる金村の気持ちを思うとありがたいとも感じていた。資格を取るまでは絶対に就職しないという固い信念が揺らぎ始めた。
数日後、誠のアパートに金村の勤めるシンクタンクから書類が送られてきた。履歴書代わりなのか、受験シートが同封されていた。募集資格が三十歳までなのに、金村が言うように人事課に取り計らってくれたため受験可能になったのなら、金村の面子を潰すわけにはいかない。そこまで自分のことを心配してくれるのなら、受けるだけでも受けてみようかと誠は思った。誠は気乗りはしなかったが、受験シートに必要事項を記入して会社宛てに送付した。大事な時期、資格試験以外のことでエネルギーを取られるのは正直、迷惑な話だったが、誠は金村の顔を立て受験することにした。
試験問題は専門的過ぎて、診断士の勉強が生かせるようなものではなかった。不合格の通知が届いた時、誠は(金村には悪いが)自分にとってはむしろ幸いだと思った。結果を知らせると金村は、「ダメだったのか」とため息をつき、心から残念がってくれた。誠は金村のそんな仕草のひとつも、金村の持つ優しさや思いやりだと感じた。
誠が初めて、中小企業診断士の試験を受けのは今から二年前だ。
しかし、新年度に経理から営業に異動になってから平日の夜間にある講座には通えなくなった。さらに、年末と並んで多忙で書き入れ時の中元商戦を迎えていた。誠は勉強不足の焦りと連日の残業からくる疲労で体を壊し、試験前日に四十度の高熱を出してしまった。誠の一回目の試験は実際は、ロクに受験すらできない状態のまま終わってしまった。
試験とは残酷だ。落ちた人間はどんな理由があろうとも、いかなる言い訳も許されない。自暴自棄になっていた誠は講座終了後、流れで飲みに行った際、金村に一部始終を話してしまった。しかし、金村だけは親身になって話を聞いて、誠の肩を叩きながら慰めてくれた。
「わしは戦時中疎開している頃、空襲で両親を亡くしてるんよ。わしは小学校四年だった。まだ、幼かった弟妹と一緒に遠くの親戚の家に預けられたんよ」
「そんなことがあったんですか」
「昔はあれほど優しかった伯父夫妻が手のひら返したように冷たくなってな。
朝から晩まで過酷な農作業を手伝わされた。一緒に遊んだ従妹たちとも、食べ物一つでもあからさまに差を付けられて。それは惨めだったよ。兄弟三人、馬小屋で泣きながら夜を明かしたこともあった。数えで五歳だった弟は戦後まもなく、その時の栄養失調が原因で死んだ。わしは働きながらやっと定時制高校を卒業して、とても大学なんか行けない身分だったけど、担任の先生の取り計らいで奨学金を受けながら大学だけは出ることができたんよ」
「随分と、ご苦労されてきたんですね」
「あんたなんか、まだ若いんだから何度だってやり直しがきくさ」
誠は金村の身の上話を聞いてだんだん胸が熱くなってきた。自分はこの人に比べたらまだ恵まれている。自分の苦労など、まだ苦労のうちにも入らないのかもしれないと思った。
しかし誠は激務の上に勉強時間が十分に取れず結局、二度目の試験にも失敗してしまった。営業から離れるために転職した会社も既に三月末で退職してしまっている。
診断士を目指す者は三十代、四十代の金融機関の人間が比較的多いという点を除けば、業種も年代も様々だ。誠のようにまだ二十代だった者もいれば、金村のような五十代の人間までいたが、資格を目指すという意味ではスタートラインは皆同じだった。
しかも会社のような露骨な上下関係もなく、誰でもチャレンジ可能でフェアな資格の世界が誠は嫌いではなかった。会社を辞めてから誠は判で押したような生活を送った。食事と買物以外、午前二時間、午後二時間、夜ニ時間マイペースで勉強を続けた。一日の勉強を終えてシャワーを浴び、ベッドでFMのクロスオーバーイレブンを聞き入る時間だけが楽しみで、誠は癒される気がした。一日はあっという間に過ぎて、すぐ次の朝が来た。
爆睡している誠をいきなり叩き起こす電話が鳴った。誠が夢うつつでいる時、誠は金村の電話で容赦なく叩き起こされた。
「わしや、いい加減に起きろよ」
金村は毎日、始発電車に乗って仕事が始まる前に会社で診断士の勉強をしているそうだ。年寄りになると朝が苦にならないと聞くが、金村もそうなのだろうか。金村は電話を掛けてくる際、誠にクイズのように必ず何か問題を出してくる。
「あんた、メセナって知ってる? ところで、タスクフォースって具体的にどういう意味や?」
「いきなり、何ですか?」
寝ぼけた頭をフル回転させながら誠が答える。また、嘘か誠か真偽のほどはわからないが、金村は時に、耳寄りな試験情報ももたらしてくれた。
「あんた、今年の試験、願書出すならなるべく後の方がいいよ」
「どうしてですか?」
「採点担当者が疲れて、採点が甘くなるんだってよ」
「へー、そんなことあるんですか?」
誠はこんな突拍子もない行動や言葉も、金村の持つ優しい一面だと思って感謝していた。きっと、人一倍辛酸を舐めてきた人生だったから思いやりもあり、人の心の痛みもわかるのだろう。
誠は金村のことを思う時いつも、「捨てる神あれば拾う神あり」という諺を思い出した。金村という人は根っから温厚で優しい人なのだ。誠は金村のことをそう信じ切っていた。
誠の一日は勉強中心だったが、若いだけに気分転換も必要だった。たまには体を動かさないといけないと思い、週に数回近所のゴルフ練習場に打ちっ放しをした。自己流で打ったボールは何度打っても思い通りに飛ばなかった。ストレス解消どころか、ストレスが溜まる一方だった。誠はそんな時、勉強している時より惨めな気分を感じた。
初夏の兆しが見え始めた頃、大手の資格スクールが主催する模擬試験があった。誠は力試しのつもりで受験した。帰ってきた結果は、総合順位が一桁だった。七百人近く受験した中で一桁なので、これで完全に合格圏内である。そんなある日、タイミングよく金村から電話が掛かってきた。
誠は喜び勇んで、模試の結果を金村に報告した。
「この前、K学院の模試を受けたんですけど総合順位一桁だったんですよ」
K学院は診断士受験の二大予備校で、受験生の間では知らぬ者はいない。K学院の問題集(誠は三年目でやっと手掛けることができた)は、合格した者ならほとんどがやっているという噂も耳にした。信頼できる学校の模試で七百人中一桁である。誠は当然、金村が自分を褒めてくれるものだと思っていた。
しかし、金村は誠の話に興味がないのかやけに素っけなく、あえてその話題には触れようとはしなかった。
しばらく沈黙の後、金村から気のない返事があった。
「ところで、あんた、日経流通新聞取ってる?」
「もちろん取ってますけど」
「それ、どうしてる?」
「大切な記事はノートにスクラップしていますけど」
診断士試験は流通業界の時事問題などもよく出るので、日々様々な所にアンテナを伸ばしておかなければならない。誠は日頃から日経新聞なども隅から隅まで読んでいた。
「そのノート、わしにコピーさせてくれないか?」
「僕の作った資料でよろしければ構いませんけど」
「ところで、あんた今度、東京に出て来る日ない?」
「前もって日時さえ決めていただければ全然、問題ありませんけど」
誠は今年、別の資格スクールの講座に通っていて月に三回、都内にある資格学校に行く予定があったので金村の申し出を快諾した。
新緑が眩しい昼下がり、誠と金村は日比谷公園内にある図書館で、落ち合った。久々会った金村は以前より一層貧相に見えた。金村は図書館でノートを入念にコピーすると誠に話しかけた。
「わしら三人はここの図書館で、よく勉強してるんや」
三人とは、おそらく学校でいつもつるんでいた野角と藤田のことだろうと誠は思った。
誠は金村がお礼に昼飯を奢ってくれるのではないかと浅ましい期待をした。公園脇にビアガーデンがあった。金村は安物のガーデンチェアに腰掛けると横柄にウエイトレスを呼びつけ、ビールとつまみを注文した。
金村が頼んだつまみはフライドポテトとソーセージだった。誠は内心、豪勢な食事にあり付けると期待をしていたので当てが外れた思いだった。しかし毎日、禁酒生活を続けている誠には、久々の真昼間からのビールだ。
「ホラ、大ご馳走だ。遠慮しないでどんどん食え」
金村はまるで、野良犬に餌を投げ与えるように誠に勧めた。
誠は何が大ご馳走だと思いながら慌ててフライドポテトをビールで流し込んだら、噎せて涙が溢れ出た。自分で自分が情けなかった。金村はバブル時代、証券マンで常日頃羽振りの良さを自慢していたが、身なりは質素で吝嗇だった。以前、誠は講座の帰りに一緒になった際、金村から「コーヒーでも飲んでいくか?」と誘われたのがファストフード店だった。あの時も、一杯百円の安いコーヒーを恩着せがましくご馳走してくれたことを思い出した。
金村が突然、話を切り出した。
「ところで、あんた今年落ちたらどうするつもりなの?」
誠は虚を衝かれた気がした。その質問だけには触れられたくなかった。誠が答えられないでいると、金村はさらに追い打ちを掛けてきた。
「あんたはおそらく、今年も受からないだろう」
いきなりの速射砲だ。誠は動揺を隠せなかった。誠はそもそも試験に落ちることを前提にしていない。だから、金村から発せられた一言は大きなショックだった。仮に冗談だとしてもキツすぎるし、すべてを捨てて資格取得に賭けている誠に対して放つ言葉にしては無神経極まりなかった。誠が何も言い返せないでいると、金村は二の矢を放ってきた。
「野角があんたのこと言ってたわ。『アイツの人生、これでもう終わりだろう』って」
誠は会社を辞めた時、野角からいの一番で電話が掛かってきたことを思い出した。
「そう言えば、三木さんもあんたを、『あれは使いモノになるの?』って言っとったよ」
三木は誠が勉強を始めた頃から相談に乗ってもらっていた信頼していた講師だった。その三木が誠のことを使いモノにならないと金村に断言したという。誠は、誠の知らぬところで誠を取り巻く数々の悪意を知り、信じられない思いだった。
しかし、あれほど好意的だった金村が今になって、なぜ豹変したのだろう。誠は今までの出来事を反芻してみたが、誠が金村の逆鱗に触れるようなことをした覚えはどう考えても思い浮かばなかった。
誠はテンションが一気に下がっていくのを感じた。
資格試験はモチベーションの維持がもっとも大切である。時にモチベーションの低下が命取りになる場合がある。合否を左右しかねない話題は自然と今後の勉強にも影響してくる。
誠は話題を変えたかった。誠は以前、金村が大手食品会社の副社長とゴルフでラウンドしたことを居酒屋で自慢げに話していたのを思い出した。
「勉強の合間、たまにゴルフの練習に行ってるんですよ。いつか、コースデビューしたいと考えているんです。試験が終わったら一回、連れてってくださいよ」
「ゴルフ? そんなもん、試験に落ちたらいくらでも連れてってやるわ」
(そこは普通、受かったらだろ? というか、これがこの人の本心、なのだろうか?)
金村は誠が気落ちたしたのを感じたのか、さらに次の矢を放ってきた。
「ウチの息子なんか、あんたなんかと違って優秀やよ。会社できちんと仕事もしながら、去年も宅建の試験に一発合格してきおったわ。身長も百八十センチあって、親のわしから言うのも何やけど、なかなかの男前やよ」
金村に誠と同じくらいの息子がいることは聞かされていたが、今度は息子自慢らしい。誠はこれ以上聞かされるのは自分の為にならないと思い、用事があると理由を付けて金村と別れた。誠はその日当てもなく街を彷徨い、アパートに帰った時には日はすっかり落ちていた。
受験生にとって、模擬試験は自分の実力や位置を客観的に把握できる唯一のバロメーターである。誠は翌日、今年通っている資格スクールの模擬試験を受けることになっていた。
ところがその前日、まるで謀ったかのように一本の電話が掛かってきた。聞き覚えのあるくぐもった声が受話器から聞こえてきた。
「わしや。金村やけど」
誠は嫌な予感がしたので、一刻も早く電話を早く切りたかった。
「何でしょうか? 明日、模擬試験があるので要件があるなら早めにお願いします」
「あんたは、資格に人生を賭けようとしている」
「はあ?」
資格に賭けることのいったい何が悪いのだろう。そもそも他人に言われる筋合いはない。
「何がおっしゃりたいんですか?」
「昔、わしの知人で司法試験を目指しいる奴がおってな。そいつ、もう何回も試験に落ち続けているんよ。もう四十歳過ぎているのにまだ、諦めもせずやっている。馬鹿な奴だ。無職だからもちろん独身よ。あんた見ていると、いずれあんたもあんな風になるんだと思うと、何だか気の毒で見てられんわけよ」
金村の言っていることはもっともで一理ある。ただ、誠はいったんレールを外してしまった人間だ。一見思いやりのあるような言葉だが、何もかも捨て資格を目指している人間に対して言う言葉にしては残酷極まりない。
誠は以前、「自分にもう失う物は何もない」と金村に話したことがあるが、試験に落ちることを前提に話をしているのが不愉快極まりなかった。どこまでも人の弱みに付け込み、不安を煽る金村の言葉に誠は理性を失い、朝まで部屋の壁を叩き、嘆き続けた。
毎日、計画的に勉強し続け、やるべきことはすべてやったつもりだ。しかし、本試験まで一ヶ月と迫った七月に入ると今まで突っ走ってきたせいか、急に能率が落ち集中力が途切れてきた。しかし、ここからが受験生にとって正念場である。直前の過ごし方を誤れば今後の人生が大きく変わってきてしまう。誠の緊張感はマックスに達した。
本試験は八月の第一土日の二日間である。一年中で間違いなく、もっとも暑い日である。東京での受験は渋谷のA大学で行われる。毎年何とかならないかと思うのだが、大学が夏休みのため教室に冷房が入っていない。
東京だけで五千人近くいる受験生はまるでサウナで資格試験を受けるようなものである。受験した者にしかわからないが、まさに灼熱地獄だ。誠は前日、持ち物を入念にチェックして試験に臨んだ。冷凍庫で凍らせたおしぼりとペットボトルは受験生には必携の品である。試験中、熱中症ででも倒れたら洒落にならないが、そういう受験生も毎年何人かいるらしい。
誠は試験当日、キャンパス正面の案内板に従い、受験番号と教室が表示された掲示板がある場所まで進んだ。受験票を片手に教室がどこか確認しているといきなり、後ろから肩を叩かれた。振り返ると、金村が薄笑いを浮かべながら立っていた。
誠は無意識に、金村を上から下まで隈なく観察した。金村はよれよれのポロシャツに短パン姿で、か白く細い足には不潔そうな脛毛が丸見えだった。誠は「こんな格好でよく、電車に乗れたな」と思ったが、これは金村に恥という概念がないからだろうと思った。
金村が開口一番、誠に話し掛けた。
「あんた、受かってもダメよ」
金村は真っ黄色な歯を剥き出し、誠にいきなり強烈な先制パンチを投げ掛けてきた。
「受かってもダメよ」とは、いったいどういう意味なのだろうか。誠はなかなか思考が整理できなかったが、「受からないよ」と言われるより「受かってもダメよ」の方が、そもそも試験に合格してもダメだと言われている点で、さらにダメージが大きいということだけは朧げに理解できた。
誠は本番直前で気持ちが大きく揺らぐのを感じた。おそらく、金村は掲示板の前で誠が来るのを待ち伏せしていたのだろう。誠は試験が始まっても「金村の言葉」が頭に過り、なかなか試験に集中することができなかった。一日目の出来は最悪だった。本番直前の金村の一言で出鼻を挫かれ、力を十分に発揮することができなかった。
誠は前日、本試験に備えて試験会場近くにビジネスホテルを予約していた。
試験は明日もある。初日の出遅れは十分挽回できると信じ、誠は気持ちを入れ替えた。二日目は幸運なことに金村にも会わず、誠の得意科目が続き、納得いく答案を書くことができた。誠は適度な疲労を感じながら、受験生の流れに任せてキャンパスを正門に向かって歩き進んでいた。
正門を抜けようとしたその瞬間、誠は不意に後ろから声を掛けられた。
「おい。これから打ち上げで一杯やりに行くんだけど、おまえも一緒に付き合わないか?」
振り返ると薄笑いを浮かべた金村と藤田が並んで立っていた。誠はまさか、試験直後も金村たちに正門で待ち伏せされているとは思わなかった。油断も隙もあったものでない。
「今日は疲れているんで、遠慮しておきますよ」
「何を言ってるんだ。おまえ、試験も終わったんだから今日くらい羽目を外せよ」
誠は気乗りしなかったが、断る理由もなかったので渋々付き合うことにした。金村たちは渋谷駅近くにある居酒屋の暖簾を潜った。汚らしい座敷で金村と藤田が並び、誠はその前に座らせられた。激安で不味そうなつまみが所狭しとテーブルに並んだ後、無理やりビールで乾杯させられた。金村は一口ビールを飲み干すと誠に向かって大見得を切った。
「どうだ。おまえ、もうこれでわかったろう?」
誠はどういう意味なのか思案していると、藤田が追い打ちを掛けてきた。
「おめえ、自分をよく考えてみろ。おめえなんかどう考えても受かりっこねえんだ。会社辞めて資格なんかに賭けてこのバカが。おめえは働きながら、何度でも試験を受けりゃいいんだよ」
藤田の言葉の節々には東北人独特なイントネーションや訛りがあった。誠は金村だけでなく、藤田も誠が一次試験に落ちることを前提に話をしていることを理解した。結果が出ていない段階ですでに一次試験に落ちていると決めつけられると、二次試験へのモチベーションを上げることができない。
たしかに誠が一次に落ちていたら二次の勉強する意味すらない。しかし、二次試験は一次試験終了後から二ヶ月しかないから、合格するためには一次の合格発表後に勉強を始めてももう間に合わない。だから、受験生は見切り発進で勉強を始めなければならない。だから、誠が仮に一次試験に合格していたとしても、すぐに二次試験の勉強を始めさせないという意味では、誠に大きなダメージを与えることになる。
おそらく、奴らは最初からそういう目論見で誠を飲みに誘ってきたのだろう。誠が落ち込んでいると、藤田がさらに嫌らしく自慢話を始めた。
「俺なんか、どこの会社に転職しても軽く年収一千万円は出るよ」
藤田は東北地方にある偏差値の低い国立大学の出身だ。しかし、どこに転職してもそんな高評価を受けるような人物なら、そもそも資格なんか必要ないだろうと誠は思った。金村からも以前、証券会社時代の自慢話は散々、聞かされた。一般的に資格を欲しがる人間は社会の誰からも評価されないから、何か公的なお墨付きが欲しいといった理由での受験も多い。
一刻も早く居酒屋から逃れたかったが結局、誠が能力もないのに資格試験に賭けてしまったことに対する批判や説教などに話は終始した。誠は悉く打ちひしがれた。試験の出来が今一だっただけに、金村たちの一言一言が身に堪え、頭にこびりついて離れなかった。
誠は渋谷駅のホームに電車が入ってくる時、今線路に飛び込めばラクになれるかもしれないと一瞬、思ったが寸前のところで踏みとどまった。呆然自失した誠は、金村たちと別れた後、どうやってアパートまで辿り着いたかすらよく覚えていなかった。
折も折、誠宛てに模擬試験を受けたK学院から二次試験対策講座のダイレクトメールが届いた。講座料金は十万円。一次に合格していれば意味はあるが、金村が言うように落ちていればドブにカネを捨てるようなものだ。無職で貯金を切り崩している今の誠にとって、十万円の出費は正直痛すぎた。
迷いに迷った末、誠は受講することにした。今まで散々投資してきたのに、最後の最後でケチってしまったら元も子もない。銀行のATMで金を振り込むと意外にも気持ちがスッキリした。一次の結果は二次講座の最中に知ることになるので残酷極まりない話だが、受験界は常に一握りの勝者と大勢の敗者がいるのだから仕方なかった。
二次対策講座は八月末に始まった。資格試験の講座で昔の知人に偶然出会うケースは多い。初日、教室に入るとかつて同じ講座に通った顔なじみの人間も何人か見掛けた。
「久しぶりじゃん。珍しい所で会ったね」
「ほんと、ご無沙汰でしたね」
桧山茂雄は誠を見つけるなり、人懐っこそうに話し掛けてきた。
桧山はかつて同じ資格スクールで勉強してきた受験仲間だった。中高年の受験生の中では、若手で体格もいい桧山は目立った。桧山は誠より一つ年上でお互い独身なので話も合った。誠は、桧山が誠が転職したての頃、たいした用もないのによく電話を掛けてきたことを思い出した。桧山は社会保険労務士の資格を持っているが診断士受験生には珍しい高卒で、診断士・社労士のダブルライセンスを目指していた。
しかしこういう場合、試験の出来などデリケートな話題は避けるのが受験生同士の一般的なルールなので、差し触りのない話題でお茶を濁した。
桧山も誠と同じ受験三回目、今年は試験会場に冷房が入っている名古屋で受験したらしい。
「俺なんか、新幹線が台風の影響で遅れて車内で五時間も缶詰になっちゃって、超焦ったよ」
「マジですか? 僕なんか、試験会場で金村さんにバッタリ会っちゃったんですよ」
「えー、それはとんだ災難だったね」
桧山も誠や金村たちと一緒に何度か飲みに行ったこともあるから、金村の人柄や性格はよく知っている。桧山は誠がアパートを借りて一人暮らしを始めたことに触れてきた。
「黒木さんが羨ましいよ。俺も一人暮らし、始めようかな」
「羨ましがられるようなもんじゃないです。一人暮らしも勉強するにはいいですけど炊事、洗濯、掃除、ゴミ出し全部一人でしなきゃいけないから自宅より面倒なことも多いですよ」
誠は以前一緒に飲んでいる時、桧山がゴルフをすることを思い出して話題を変えた。
「試験が終わったらゴルフにでも行きません? 下手ですけど、たまに練習しているんですよ」
「うん。それもいいね」
しかし、桧山とはそれ以来、講座で会うことはなかった。
一次試験の合格発表は九月の半ばにある。
その日を境に受講生の数は激減する。それは不合格だった者は来なくなるからだ。もっとも昨年一次に合格している連中も受講しているから、講座は最後まで熱気があった。しかし桧山が合格発表後、講座に顔を出すことは二度となかった。
誠は一次試験の合格発表を見に行く勇気がなかった。合格していれば合格証明書が届く手はずになっている。誠の手に郵便配達員から直接、書留が届いたのは合格発表の翌日だった。誠は合格して安堵したが、何よりもこれから二次試験の勉強だけに集中できるのが嬉しかった。誠は一次試験に合格したことを誰にも喋らなかった。誠にとって一次試験合格など一時の通過点に過ぎなかった。誠の目標はあくまで二次試験に合格して、中小企業診断士資格を取得することである。
その夜突然、電話が鳴った。案の定、電話の主は金村だった。
「元気? あんた、元気出さにゃダメよ」
「そう言えば、二次試験の講座ではお会いしませんでしたね」
誠は慎重に対処した。最初から試験に合格していないと思っている人間は高い金を支払ってまで、二次講座を受講したりしない。金村はおそらく、このパターンだ。
金村は誠の問い掛けには一切答えず、間髪入れず本題に突っ込んできた。
「ところで、どうだったよ?」
「一次試験のことですか? 今日、診断協会から合格証明書が届きましたよ」
「何だ、受かっちまったのか・・・・・・」
金村は褒めるどころか、誠が合格したことがまるで悪いことのような口ぶりで答えた。
「合格証書が来たからそのようですね。金村さんはどうでした? 合格証書来ました?」
沈黙を保っているところを見ると、どうやら金村には合格証明書は届いていないようだ。重い空気を察した誠が咄嗟に機転を利かした。
「わかった。きっと金村さんの住んでいる場所が遠すぎるんですよ。たしか、都内でも二十三区外でしたよね。だから、着くのが一日、遅れるんじゃないですか?」
「嬉しいこと言ってくれるじゃん」
金村は吐き捨てるように言った。
誠はすでに金村が試験に落ちていることを確信した。金村にしてみれば仮に自分が落ちていても誠が落ちていれば結果オーライだったのだろう。わざわざ電話を掛けてきたのは、誠が落ちていれば徹底的に罵って、憂さ晴らしをしてやろうと目論んでいたからだ。普通に考えれば、試験は自分の不合格が分かった時点ですでに諦める。落ちた人間は自然とフェードアウトしていくのがこの世界のルールだが、金村の場合はそうではないらしい。どこまでも誠の行く末が気になるようだ。
一次試験に合格したことで誠は幾分、生活に平穏を取り戻した。あとは二次試験に向けてベストを尽くすことだけだ。しかし、二次試験まではすでに三週間を切っている。絶体絶命で圧倒的に時間が足りないが、今からでも必死にモチベーションを上げて、一日でも早く受験モードに切り替えていかなければならない。
金村から電話があった数日後、誠が夕食用のカレーの肉を炒めていると、突然電話が鳴った。誠は緊張で神経が昂っていたので一瞬、身構えた。電話の主は意外にも野角だった。
「一次試験受かったんだって?」
「受かりましたけど。でも、どうして知ってるんですか?」
「金村さんから聞いたんだけどね」
「はあ?」
金村は誠の二次試験合格阻止のため、新たに刺客として野角を送り込んできたようだ。一人だけ抜け駆けは絶対許さないつもりらしい。野角は誠より一年早く昨年一次試験に合格しているが、二次には失敗して二度目のチャレンジだ。野角が今年、準備万端で臨んでくるの間違いなかった。野角は三度目の試験で合格した誠に対して、人を小馬鹿にするように言い放った。
「まあ、二次試験は精々頑張ってやってこいよ」
誠は野角の傲慢そうな角ばった顔を思い出した。
「そう言えば野角さん、K学院の二次試験講座ではお会いしませんでしたね」
野角はその質問には答えなかった。野角はよほど自信があるのだろう。高額な講座に出る必要などないと考えているようだ。野角の「上から目線」は止まることを知らなかった。
「そうそう。この前、二次の模擬試験があったんだけど俺、全国で五番だったんだよ」
「凄いですね。それじゃ、もう、受かったも同然ですね」
二次試験直前で誠の出端をくじくつもりなのか、今度は自分が受けた模試の話を始めた。誠が褒め称えると野角は満更でもない様子だった。誠は野角の話を聞き流そうとしたが野角はさらに調子に乗り、その後も延々と野角の自慢話に付き合わされる羽目になった。
やっと話が終わった頃にはカレーの肉は黒焦げになっていた。使い物にならない肉を誠は泣く泣く流しに捨てた。最近、口にしていない久々の牛肉を思うと悔しさ一入だった。
金村という男はつくづく執念深い。誠の合格阻止を狙って時を変え、手を変え、品を変え、人を変え、ありとあらゆるやり方で悪巧みを仕掛けてくる。
誠は受験仲間と信じていた人間から攻撃を受けることだけは想定していなかった。敵と必死になって戦っている時、不意に後方から味方に弾を撃たれた感じだ。戦争末期、日本兵が東南アジアで持久戦を強いられた時、最後は味方同士で食料を巡り醜い争いが始まったという。人間、極限の状態になると敵も味方もなくなるだろうか。誠にはもちろん戦争体験はないが、同士討ちの標的にされた日本兵の気持ちは、きっとこんな感じだったのだろうと推察することができた。
折も折、心配していたことが現実になった。
誠の体に異常が生じ始めた。最初は歯だった。夜中に突然歯が痛み出し、朝になっても痛みは収まらなかった。刺すような痛みが日増しに増幅し勉強に集中できない。誠は焦った。一刻も早く歯医者に行く必要があった。ところが誠は無職のため保険に入っていない。また、アパート近くに顔馴染みの歯科はない。一軒だけ、保険適用外のヤバそうな歯医者があったが、いかにもモグリでやっていそうな怪しい雰囲気だったので寸前で入るのを止めた。
誠はいったん自宅に戻り、掛かりつけの歯科に行くことにした。顔なじみの歯科医は応急かつ適切な処置を施してくれた。誠はこの高齢の歯科医師が一瞬神様にも見えた。
誠はアパートに戻って勉強を続けた。試験まであと一週間に迫った時だった。誠はいきなり猛烈な腹痛に襲われた。トイレの便座に座ったまま、脂汗を掻きながら朦朧とした意識の中で昨日、食べた魚介類の缶詰にでも当たったのだろうと思った。誠は度重なるダメージで自律神経が参っていた。救急車を呼ぼうと思ったが、ベッドでしばらく横になっているとだんだん体調が回復してきた。誠は気力で最大の危機を乗り越えた。誠の場合、資格試験とは勉強よりもある意味、自分自身との戦いでもあった。元々、体が丈夫でない誠は人一倍プレッシャーにも弱く、精神的なダメージが即体にきてしまうのだった。
二次試験は体育の日の祭日、十月十日に行われる。
誠は前日にビジネスホテルに宿泊したが、緊張で一睡もできぬまま当日の朝を迎えた。睡眠不足とはいえ気持ちが高揚していたので体調はそんなに悪くはなかった。一次試験のように、サウナの中で試験を受ける非人間的な状況でないのがせめてもの救いだった。
試験当日は、誠の悩みなど何も知らぬように朝から快晴だった。
大学の正門を潜り、案内板に従い掲示板まで進む。掲示板の前まで来た時、誠は不意にねっとりとした視線を感じた。誠はその瞬間、後ろから肩に手を掛けられた。振り返ると金村がてかった頭に薄ぺらなジャケットを羽織り、亡霊のように立っていた。金村は一次試験の時と同じように、掲示板の前で誠を待ち伏せしていた。隣には先日、誠に迷惑千万な電話を掛けてきた野角が、鰓の張った四角い顔で薄笑いを浮かべながら立っている。
異様な空気を察した誠は、冷静さを装いながら慎重に言葉を選んで話し始めた。
「何だ。人が悪いなあ、金村さんも。やっぱり、一次試験に合格してたんじゃないですか」
「いや。あんたのことがちょっと気になってな。それで、来てやったんだよ」
「気になったって」
金村は一次試験すら合格していないから二次試験を受験する資格などない。しかし、金村は試験直前に誠に会うためだけに、わざわざ早起きしてここまで乗り込んできたらしい。
誠は金村の執拗な嫌がらせや執念深さは、もはや異常レベルだと思った。野角が金村の隣でニヤニヤ笑いながら、誠に語り掛けてきた。
「まあ、精々頑張ってこいよ」
「野角さんは受かるだろうけどよ、あんたは絶対受からないから」
(コイツは、まともな人間じゃない)
誠は怒りで爆発寸前だったが、必死の思いで冷静さを保った。今、金村たちの挑発に乗ってここで喧嘩でもしたら、試験のための貴重な体力やエネルギーが奪われてしまう。
誠が黙っていると、金村は最後に決定的な一言を付け加えることだけは忘れなかった。
「あんた、受かってもダメだからね」
誠は記憶の片隅で、同じフレーズを一次試験直前にも聞いたことがあると思った。
一次試験に続き、二次試験でも直前に大きなダメージを受けてしまったが誠は開き直ることにした。金村もまさか、教室の中までは入って来られないはずだ。誠は動揺したが、今まで数々の嫌がらせで、少しは耐性がついていた。やるべきことはすべてやった。試験中は大学構内には金村がいるかもしれないから、できるだけ教室の外には出ないようにした。幸い、昼食用の弁当は買ってきたので外出しなくともよかった。そう考えて、誠は次第に普段の冷静さを取り戻していった。
誠はかつて、食品卸売会社で営業をしていた。
その際、クライアントの中小企業の社長から相談されたり、スーパーの担当者から散々愚痴を聞かされたりした。ところが、誠にとって幸運なことに仕事で経験したことが二次試験ではそのまま問題になっていた。これは他の受験生より絶対有利なはずである。試験に組みしやすい誠は素晴らしい答案が書けた。誠は最後の科目の問題が終わった時、合格を確信した。答案を見直す時間に余裕のあった誠は他の受験生よりも早めに退出することができた。
爽やかな秋風が通る抜ける中、人も疎らなキャンパスを正門までスムーズに移動できた。
誠は一瞬また、校門で待ち伏せしているのではないかと思ったが、金村の姿はそこになかった。金村にしても試験が終わるまで一人で待っているのはおそらく苦痛だったのだろう。誠の心配は杞憂に終わった。二次試験の出来が良かったせいか、誠の足取りは何時になく軽かった。
横浜駅で一人食事を済ませアパートに帰ると、暗い部屋の中で留守電が不気味に点滅していた。
再生すると十月九日夜半、何度も電話が掛かってきた経歴が残っていた。
留守電に「チッ!」という雑音や「あの野郎、どこほっつき歩いてるんだ」とか入っている。誠はそれを聞いてすぐに金村だとわかった。最後のダメージを与えるつもりで電話を掛けたが生憎、誠は不在だった。
金村は誠が試験前日ホテルに泊まっていることを知らない。捕まらない誠に苛立ちながら、何度も電話を掛けてきたのだろう。ダメージを与えられなかった金村はロクに眠れず、そのうえで試験当日、掲示板の前で待ち伏せしていたのだろう。改めて金村の不気味さを感じた。誠の疲労は限界に達していたが、その日は試験が終わった安堵から久々に熟睡することができた。
翌週、誠は旅に出た。
行く先は奥鬼怒。試験が終わったら絶対に行こうと決めていた。始発電車に乗り、浅草から東武鉄道に乗り継ぎ、鬼怒川温泉駅に着いた。駅前から村営バスで終点の女夫淵温泉に着いた頃には、昼過ぎになっていた。奥鬼怒には秘湯があることを山岳系の雑誌で知った誠は、この日が来るのを、ずっと楽しみにしていた。
奥鬼怒は華やかな日光や尾瀬の裏に位置している。知る人ぞ知る場所で、観光客は非常に少ない。誠は渓流の音を聞き、紅葉を眺めながらひたすら歩いた。登山口の日光澤温泉を通り過ぎ、標高二千メートルを超える鬼怒沼湿原まで一気に登った。平日とはいえ、もう四時間以上歩いているのに人っ子一人いない。誠は大自然を独り占めしているような感覚を持った。日光澤温泉に着くと夕暮れになっていた。誠は露天風呂を目指した。囲炉裏での素朴な食事も、星を眺めながら入る露天風呂も最高だった。
誠はたった一泊二日の山旅で、疲れ切った心身をリフレッシュすることができた。
二次試験後、数日立った夜中に突然、電話が鳴った。
電話の主は意外にも桧山だった。桧山は二次試験講座を一緒に受けていたが、合格発表後姿を見せなくなった。考えられる理由はただひとつ、一次試験に落ちたからだ。その桧山が今さら、誠にいったい何の用事があるというのだろう。桧山が電話越しで息を潜め、じっと様子を伺っている。
桧山はいつになく横柄な口ぶりで、誠に突然鎌をかけてきた。
「まあ精々、頑張ってやってこいよ」
「はあ? どういう意味ですか?」
この前、野角に言われたセリフと同じだが、誠は桧山の言葉の真意を測りかねていた。桧山は下町にあるチンケな中小製紙販売会社に勤めている。高卒のうえ無名の中小企業で長年燻っている桧山は他の高学歴な受験生に比べ、凄まじい学歴コンプレックスがあるイタい男だ。
誠は桧山に、少し意地悪な質問を投げ掛けてみた。
「そう言えば、二次試験講座途中で急に姿をお見掛けしなくなったんで心配で電話しようかと思ってたんです。でも、どうやら僕の勘違いだったようですね。やっぱり合格してたんだ。だから、こうして僕に電話を掛けてきたんですよね?」
試験に落ちている桧山は当然、一言も返答できない。桧山は誠の質問には答えず、突然意味不明の言葉で攻撃してきた。
「当たって砕けろのつもりでやってこい!」
「はあ? いったい、何のお話をされているんですか?」
「だから、当たって砕けろのつもりでやってこいって、言ってるんだよ」
「お言葉を返すようですが、もし二次試験のことを話されているのなら、試験はとっくに終わっていますよ。結局、何が仰りたいんですか?」
しばらく沈黙があった後、桧山がストレートに切り込んできた。
「それじゃ聞くけど、二次試験できたのかよ?」
結局、そこかと誠は思った。誠が桧山に一次試験に合格したことを伝えてない以上、考えられるのは金村しかいない。おそらく、金村はしばらくして誠の試験の出来が気になってきたのだ。そこで今度は桧山を使って誠の試験の出来を探りを入れさせにきた。金村は次々と刺客を送り込んでくる。金村の執拗な攻撃は手を緩めることがない。
誠は試験の出来には自信があったが正式な結果が出ていないので、あくまで低姿勢を貫くことにした。
「自分なりにべストは尽くしましたけど」
「ふーん。だったら、いいじゃないか」
桧山は二次試験なんか受かるはずないと言いたげに、電話越しで鼻でせせら笑っている。桧山は一次試験に不合格だった以上、誠に二次試験だけは絶対に合格させたくはない。だから桧山は二つ返事で、金村の命令に従ったのだろう。元々、誠と桧山の仲は悪くはなかった。また、桧山も日頃から金村のえげつなさは重々承知している以上、いとも簡単に金村に寝返った桧山を誠は許せなかった。金村という人間は、周りにいる人間を次々に巻き添えにして正常な人間関係すらぶち壊してしまう。
二次試験の合格発表にはまだ一ヶ月もある。誠は新聞の折り込みチラシで見つけた短期間のアルバイトをすることにした。
十一月の半ば、二次試験の合格発表があった。誠は合格発表の会場のある銀座まで、自分で見に行くことにした。会場に近づくにつれ、心臓の鼓動が激しくなっていく。
誠は合格発表会場のビルに小走りで向かった。誠は一呼吸して受験番号を確認する。番号を順にゆっくり目で追っていく。果たして、誠の受験番号はあった。自分の番号を見つけた瞬間は嬉しいと言うより、安堵で腰が抜けたようだった。膝に力が入らず、よろよろと歩いて近くにあった公衆電話に入り、自宅に電話を入れると母の玉枝が出た。
玉枝は誠からの電話を待ちわびていた。
「母さん、オレ受かってたよ」
誠は電話しながら号泣していた。誠の合格を心から喜んでくれるのは母親だけだった。
翌日、二次試験合格の証明書が届いた。筆記試験に合格した者だけが、来年早々十五日間の実習を受けて終了後、正式に中小企業診断士として登録することができる。誠は桧山だけには、どうしても自分の二次試験合格を伝えてやりたかった。会社に電話を入れるとしばらく待たされた後、桧山が不機嫌丸出しの声で電話に出てきた。
「なあに?」
「お仕事中すみません。黒木ですが、あの、僕二次試験合格していたんで」
「何だ。そんなことか」
「そんなことかは、ないだろう」と誠は心の中で毒づいた後、歯の浮くような台詞を吐いた。
「桧山さんはいろいろ心配してくれたので、報告だけでも入れないといけないと思って」
誠は受話器の向こうで、桧山が一刻も早く電話を切りたがっている様子がわかった。沈黙の後、桧山は喋り出した。
「今度会ったら、先生って呼ばなきゃいけないね」
「そんな。今まで通りで結構ですよ」
桧山にとって、誠の二次合格の知らせはさぞ面白くなかっただろう。おそらく、はらわたが煮えくり返っていることだろう。誠は話題を変えた。
「お互い落ち着いたら一回、飲みにでも行きましょうよ」
「そうだね」
桧山は気乗りしなさそうに答えると「今、ちょっと忙しいから」と言って、乱暴に電話を切った。
誠には二次試験の合否を知りたい人間がもう一人いた。
二次試験直前に電話を掛けた野角だ。誠に必要以上にプレッシャーを掛け、金村を焚きつけた張本人でもある。あれほど自信満々だった野角なら当然、合格しているはずだ。誠は夜半を狙って、野角の自宅に電話を入れた。
「野角さんのお宅ですか?」
「野角ですけど」
電話には小学校低学年くらいの女の子が出た。電話に出たのが子供だったので誠は一安心した。子供は正直だから電話を繋ぐことができるが、万が一女房でも出ようものなら居留守を使われる可能性だってある。誠は必要以上にゆっくりと話しかけることにした。
「黒木と申しますけど、お父さん、今お家にいますか?」
「お父さん? いるけど。ちょっと待っててね」
数分後、野角が渋々電話に出てきた。誠は作戦通り、早口で一気に捲し立てた。
「黒木です。二次試験、お疲れ様でした。でも試験、メチャ簡単でしたね」
日頃、饒舌な野角がこの前の電話とは打って変わって一言も発しない。誠は沈黙を続ける野角が試験に落ちていることを確信した。一方、野角は何時になくテンションの高い誠を絶対に合格していると感じているはずだ。それを知って誠はさらに畳み掛けた。
「今度、合格祝賀会でもしません? 僕は無職ですからいつでもどこでもOKですよ。ところで、来年の実習どうします? もちろん、行きますよね?」
野角は誠が何も言っても無言で、お通夜のように終始無言を貫いている。
「どうしたんですか? さっきから一言も喋らないで。どこか、体の具合でもお悪いんですか? それとも、風邪でも引かれたんですか?」
会話は一方的でまったく盛り上がらなかった。誠は容赦なく本題に切り込んでいった。
「ところで、もちろん二次試験は合格されたんですよね?」
「・・・・・・」
長い沈黙の後、野角は「うーん。駄目」と本音を吐いた。誠はさらに語気を強めていく。
「まさか、そんな訳ないでしょう? 試験前にわざわざ僕に電話掛けてきて、模擬試験五位だったとか散々自慢されてたじゃないですか。あれ、どうなったんですか?」
野角は苦し紛れに「おめでとうございました」と言うと一方的に電話を切ってしまった。誠にすればあの時、野角さえ約束を守ってくれたら金村からあれほど執拗な嫌がらせを受けることはなかった。そう思うと恨み一入だったので、久々に溜飲が下がる思いだった。
合格発表の翌々日の夜半、金村から電話が掛かってきた。
誠はこの時を首を長くして待っていた。いよいよ、真打の登場である。
「わしや。元気? 元気出さにゃダメよ」
金村は一次試験発表の時とは打って変わって、余裕癪癪の様子で話し始めた。無遠慮で血も涙もない、いつものえげつない金村だ。金村は端から誠が試験に失敗し落ち込んでいるものと確信している。誠はここからが演技の見せ所だと思った。誠はこの日のために向け、毎日何度も練習を重ね一生懸命にシミュレーションを繰り返していた。
「もう、マジで死んでしまいたいくらいです。この世から消えてなくなりたいです」
誠は、電話越しで金村がほくそ笑んでいる姿が手に取るように分かった。此奴がずっと待ち望んでいたのは、誠が不合格になって八方塞がりの中、途方に暮れている姿だけだ。
「何、言ってるの? 資格試験に一度や二度、落ちたぐらいでそれが何なの? あんたはまだ若いんだから人生、何度でもやり直せるって」
誠は心の中で『おまえにだけはそんなセリフ言われたたくねえよ』と思いながら、
「いえ、僕はこの世で生きていく資格なんかない人間の屑なんです。死ぬしかないんです」
「バカなこと言うな!」
「三次試験の実習の費用が払えなくて」
二次に合格した者だけが受講することができる実習は十五万円も掛かるので無職の誠には痛い出費だが、この程度の金が払えないわけなどなかった。しかし、実習と聞いて金村の声色が急に裏返った。
「何だ。まさか、おまえ、本当に受かったのか?」
「ええ。その、まさかです」
金村のテンションが一気に落ちていく様子が誠はよくわかった。誠は一瞬、脳から大量のドーパミンが分泌されるのを感じる。
「あんた、ええわー あんた、ええわー あんた、ええわー」
最低の人間の多くがそうであるように、金村は他人の成功を単に羨ましがるだけだった。
常識ある人間なら合格したならならまず、「おめでとう」とか「よかったね」とか祝福や誉め言葉を発することができる。まして誠に散々、嫌がらせをしてきた金村は誠を見縊っていたことをまずは謝罪すべきである。誠は金村と話しているうちに一歩間違えたらこの男に息の根を止められていたかもしれないと思うと、しだいに怒りの感情が湧いてきた。
誠は一呼吸置いて、金村にゆっくり話し掛けた。
「どうだ? これでもう、わかっただろう?」
一次試験終了後に、金村から居酒屋で言われた同じセリフを言い返した。
「わし? だってわし、受かろうとして受けてないもん」
金村は親から叱られた子供のように、その場限りの見苦しい言い訳をした。
常識で考えて、世の中に試験に受かろうと思わないで受ける人間などいない。この男は一生、他人の成功も認めなければ自分の無能さ、失敗、過ちも認めることもできない愚かな人間だ。元々、誠が落ちていることを想定して電話を掛けてきた金村は期待を裏切られ、この時ばかりは、日頃のえげつなさは影を潜め、萎れた花のように精彩がなかった。
二次試験には合格したが、誠は早々に就職活動に専念しなければならなかった。中小企業診断士になれることはほぼ確定したが就職できなければ取得した意味がない。誠はコンサルティングファームや民間企業などに履歴書を送り続けた。しかし、いずれも書類選考段階から没に次ぐ没で、片っ端から落ち続けた。
誠が買物から帰りアパートに戻ると、珍しく留守電が点滅していた。
再生すると、くぐもった聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「わしや。ちょっと、あんたに話があるんやけど、ここに電話くれないか」
誠は気乗りしなかったが、すでに二次試験に合格している安全な身なので、興味本位から留守電に録音された電話番号に電話してみた。ほどなく、中年の女性が電話に出てきた。
「N電算機です」
「そちらに、金村という方はいらっしゃいますか?」
「部長ですね。少々お待ちください」
それは、誠が初めて聞く名前の会社だった。しばらくして金村が電話に出てきた。
「あれ、金村さん、会社辞めちゃったんですか?」
「そうや。上の奴がごちゃごちゃ、うるさいから辞めてやったんだ」
以前、金村が働いていたシンクタンクは誠がどうしても受けろと言われた、あの会社である。それを金村はあっさり辞めてしまっていた。在籍期間はどう考えても半年程度である。誠がその会社を受けろと言われたのは、金村が良い会社だから誠に一緒に働かないかと言う意味で勧めてくれたものと、誠は当時は好意的に解釈していた。
しかし、金村は誠のことなど最初から考えてはいなかった。金村が誠にしきりに入社を勧めたのは、じつは誠の勉強を邪魔するためだった。もし誠が入社でもしていたら、二階に上がって梯子を外された感じである。入社を勧めた当の本人が辞めてしまったら洒落にならない。
ところが、そういうことが平気でできるのが金村という人間だ。これがこの男の本性なのだ。金村は自分から辞めてやったと言っていたが実際はクビになったのだろうと誠は思った。勤務時間中、頻繁に資格試験のテキストを開いたりしてロクに仕事にもしないので、「少しは真面目に仕事をしろ」とか、上司から叱責されて会社に居づらくなったのだろうと誠には推察できた。
野角が試験に落ちたことは確認できたが、誠にはまだ、ひとつ聞きたいことがあった。一次試験の後、居酒屋で散々偉そうに説教された藤田の合否だけはまだ確認できていない。
「そう言えば、藤田さんはどうなりましたか?」
「あいつとは一度電話で話したけど、お互い試験のことには触れなかったな」
試験の結果についての話題を避けるということは、落ちていること以外考えられない。
そんなことを考えていると、金村が思い出したように話し始めた。
「あんた、どうせ診断士なんか取っても就職先なんてないんだろう? なんだったら、わしがいい会社紹介してやろうか?」
「いいえ。遠慮しておきます」
痛いところを突かれたと思ったが、信用するに値しない金村などに就職先を紹介してもらう気など毛頭なかった。金村は新たな悪巧みをして誠を奈落の底に落とそうとしている。誠は金村にこれ以上、付け込まれたくなかったので、きっぱり断った。
師走に入り、桧山から電話があった。
桧山は以前の横柄な態度と打って変わって、いつになく低姿勢だった。
「黒木さんにお伺いしたいんですけど、K学院のべスト問題500ってやりました?」
「やったけど、それが何か?」
桧山との関係が今や完全に優位に立っていることを感じ、誠は強気でタメ口で返答する。
「俺、じつはあの問題集だけやってなかったんだ」
「あれは合格した人間なら誰でもやっているはずだけど。受験生の常識中の常識だよ」
「やっぱりそうなんだ。参考になったよ」
誠は一瞬、どす黒い感情が浮かんで、桧山に意地悪な質問を浴びせたくなった。
「それより、マジで来年も試験受けるつもりなの? 一次試験、四回目で受かった奴って聞いたことないよ。それに診断士って基本、大卒の資格じゃん。世の中に高卒の中小企業診断士っていないし、仮に診断士の資格取っても大卒じゃないと転職もコンサルタントもできねえって話だよ。桧山さん、高卒だし社労士持ってるから、それでもう十分じゃね?」
桧山は誠の度重なる言葉の攻撃がよほど堪えたとみえ、一言も発することができない。
桧山は診断士受験前に社労士の受験もしているので、桧山が来年も受験するとすれば実質五年目になる。誠も他人事ながら、資格試験に五年連続のチャレンジはさすがに辛いだろうと想像できた。誠は来年のことで余裕のない桧山にさらに追い打ちをかけた。
「あと、ゴルフの話だけど考えてくれた? 年内に一回ショートコースにでも行こうよ。来年受験するにしても、少しは一息入れろよ」
「そんな話もあったね。日にちが決まったら、こっちから電話するよ」
ダメージを受け悄然としている桧山が最後は気丈に振舞った。
誠はその後、懸命に就職活動を続けた。横浜の書店でコンサル業界紙をペラペラ捲っていると、通産省の外郭団体が若手コンサルタントを募集している広告を偶然目にした。早々に応募してみるとようやく面接まで漕ぎつけ、年末に内定の通知をもらうことができた。
世間はクリスマス一色だが、誠に一緒にクリスマスを過ごす恋人などいなかった。誠はコンビニで買ってきたハーゲンダッツを食べながら、ひとり侘しいクリスマス気分を味わっていた。誠がハーゲンダッツを二口、三口食べ始めた時突然、電話が鳴った。
「わしや」
誠はくぐもった声を聞いて一瞬、身構えた。
「なんでしょうか? まだ何か、僕に用があるんですか?」
「今度、診断士の勉強をやっている連中で忘年会やるんやけど、おまえも来る?」
「いいえ、結構です。診断士試験にはもう合格しちゃったんで遠慮しておきます」
金村自身、診断士の勉強をやっている(現在進行形)と言っている以上、まだ資格への未練が断ち切れないのだろう。誠が落ちていた場合、こてんぱんにやっつけて諦めようと思っていたが、誠が合格したのを目にして「やっぱり、欲しくなっちゃた」パターンだろう。それに誠の合格祝賀会ならともかく、貴重な時間と金を使って、何で今さら金村たちの慰労会に付き合わされなければいけないのか、図々しいにもほどがあると誠は思った。
「あんたの今後のことだって、いろいろあるだろう?」
「いいですよ。自分のことは自分で決めますから」
金村はあくまで誠の将来を心配しているように装っているが、腹の中ではロクなことを考えていない。新たな悪巧みをして、勝ち逃げだけは絶対許さないつもりだろう。もう一つの目的は、合格のノウハウを誠から盗み出したいからだ。
金村は誠の応対に焦って、今度は威嚇してきた。
「本当にいいんだな?」
「ええ。本当に、結構です」
金村は苦し紛れに、さらなる脅しをし掛けてきた。
「それじゃ、あんたとの付き合いももうこれっきりだ!」
「いいですよ。是非、それでお願いします」
誠としたら金村の方から今後、誠と付き合わないと言ってきてくれたのだ。願っても叶ったりだ。誠はこの男に二度と会わないならもはや、敬語など使う必要などないと思った。
「ところで、あんたはこの前、『わし、受かろうと思って受けてないから』って言ってたよな。もう忘れちゃった? それともまた、気が変わった? でも無理もないよな。ロクなキャリアも学歴も人望の欠片もないあんたが最後に頼れるのは資格ぐらいしかないもんな。あんたは実は喉から手が出るほど資格が欲しかった。でも一方で、自分の能力では絶対に取れないことも十分に理解していた。あんたは、自分が落ちた時に備えて俺を保険にしようと企んだ。あんたは若くて伸びしろがありそうな人間が資格を取ることだけは、どうしても許せなかった。それで時期や状況が変わる度に、俺に資格を取らさないように、さまざな嫌がらせや妨害を仕掛けてきたんだ。あんたは、いつかどこかで俺が絶対に罠に引っ掛かる、あるいは自滅すると確信していた。しかし俺はその都度、それを乗り越えて最後の最後はとうとう合格してしまった。残念だけど、俺を蹴落とすゲームは今日限りでおしまいだよ。悔しいだろうけど、もうゲームオーバーだ」
金村は一言も発することができない。
誠は畳みかけるように話し続けた。
「でも、あんたは敗北者じゃない。試験を受けるのは自由だからね。あんたは生きている限り、これから五回でも十回でも、何度でも試験を受け続けることはできる。試験に落ちた際には例の決めセリフ、『わし、受かろうと思って受けてないもん』って言っておけばいいだけの話だよ。そうすればあんたは絶対に負けたことにはならない。だから、この先ずっと不合格でも、永遠のチャレンジャーでいられるよ。羨ましい限りだね」
誠はそれだけ言って静かに受話器を置いた。誠の手元にあったアイスクリームはすっかり溶けて、ベトベトで食物でなくなっていた。
誠は翌日、受験用のテキストや問題集などの資料で一杯になった部屋を整理していた。毎月送られてくる受験会報誌は溜まると膨大な量になる。かつて通った資格スクールの会報誌を眺めていると、中ほどに資料請求用のハガキが折り込まれていることに気付いた。
誠はその時、ふと妙案が浮かんだ。
(このハガキで奴に来年度の『中小企業診断士合格講座』のパンフレットを請求してやろう。今まで散々嫌がらせを受けてきたのだから、これくらいの悪戯は許されるだろう)
誠は金村の氏名、住所、電話番号を書き込みポストに投函しに行った。明後日あたり、金村の元に来年度のパンフレットが届くはずだ。開封した金村はきっと激怒するだろう。金村への最高のクリスマスプレゼントになると思うと、誠はその夜、ドキドキして眠れなかった。
その数日後、誠あてに資格スクールから新年度講座のパンフレットが届いた。しかも宛名を見るとカムフラージュのためか、名前が誠一になっている。それを見て誠は大笑いした。誠には犯人が一目で分かった。しかし、誠は金村に報復する気持ちなどさらさらなかった。金村とはこれ以上、関わり合いになりたくなかった。
誠は「だからもう、ゲームオーバーだっちゅーの」と言いながら、パンフレットを破り捨てた。
師走の新橋の居酒屋は、どこも忘年会のサラリーマンたちで一杯だった。
居酒屋の奥座敷で三人の中年グループが談笑していた。一番年長の貧相な男が横柄に店員を呼びつけ、生ビールと刺身の盛り合わせを注文した。ほどなくビールが運ばれてきた。
ビールで乾杯した後、貧相な男がいきなり口を開いた。
「しかし、驚いたな。まさか、桧山が自殺したなんて。忘年会に呼んでやるつもりで電話したら母親が出てきて、『息子は先日、亡くなりました』だってよ。何でも、自宅近くのマンションの屋上から飛び降りたらしい。もうちょっと骨のある奴だと思っていたのに、最後は呆気なかったな。まあ、桧山も今回三度目だから内心は相当焦ってたんだろうけど」
「分不相応なんだよ。桧山はたしか高卒だろ? 高卒なら社労士程度の資格で十分なのに、中小企業診断士なんか目指すから。所詮、桧山に診断士は高嶺の花だったんだよ」
野角が吐き捨てるように言うと、藤田が含み笑いをしながら口を開いた。
「桧山は見かけによらず柔な奴だったな。俺は自殺するならむしろ黒木の方だと思ってたよ。あいつは世間知らずのボンボンだったし、従順で大人しい奴だったし。でも俺たちが散々嫌がらせしても結局、黒木は二次試験にも合格しちゃったんだから人はわからないもんだな」
「おまえ、わしの指示した通り、ちゃんと黒木にプレッシャー仕掛けたのかよ?」
「ダメージだけはしっかり与えてやったつもりなんですけど、少し手緩かったですかね」
野角がそう弁明すると、金村は船盛のマグロのトロだけを器用に箸で掻き分け、下品に刺身に食らい付きながら呟いた。
「そうやな。黒木は絶対にどこかで挫けると踏んでいたけど案外、しぶとかったな。奴は見掛けによらず、意外とタフなのかもしれねえな。さてと。来年は誰をターゲットにしたゲームしようか? 黒木はもう合格しちゃったし、桧山は死んじまったから、他に誰か手頃な奴、探さなきゃいけねえな。ところで野角、おまえ、来年も二次試験受けるのかよ?」
「どうせ、俺たちは受験界の漂流者みたいなもんだ。元々資格を取るだけの能力もないし、いまさらいい歳こいて真面目に受験勉強なんぞ、したくもねえしな。万が一、資格を取れたところで使う当てなんかねえし。優秀で前途ありそうな若い奴らを蹴落したり、潰すことぐらいしか楽しみなんてねえもんな。だから、これからもずっと試験受け続けましょうや」
藤田が野角に代わってそう答えると、金村は黄ばんだ歯を剥き出し下卑た笑みを浮かべた。
誠はアパートのベランダに立って、裏山を眺めていた。
アパートに住んで早や二年が立った。夏は鬱蒼とした森も師走に入ると落葉が一層進んだ。誠は先日、桧山とゴルフの約束をしたことをふと思い出した。
桧山はどうしているだろう。あれから桧山から一切連絡がない。しかし、誠は自分から桧山に電話するつもりなどない。ゴルフの話を持ち出したのは、思い付きで言ったに過ぎない。このまま電話がなければ、桧山とは一生会うこともないだろう。それはおそらく桧山も同じ気持ちのはずだ。資格試験の受験仲間など所詮、その程度の儚い付き合いだ。資格業界には、合格した者と不合格の者の間に目には見えない川が流れている。しばらくベランダにいた誠は急に寒けを感じて、暖房の効いてる部屋の中に入った。
誠は年末年始を実家で過ごし、久々に人間らしい生活を送ることができた。険悪だった父親との関係も就職が決まったことで修復した。しかし、資格を取得するためには十五日間の実習を終了しなければならない。誠はアパートに戻った。実習参加名簿が送られてきたので一通り、目を通した。司法修習生ほどではないが気持ちが高揚した。
実習が開催される東京の会場に着くと、既に数百名の受講生が席に付いていた。誠も見覚えのある顔が何人かいた。三年前、資格スクールで同じ講座に通っていた川村修司という四十路の男が、誠に馴れ馴れしく話しかけてきた。
「あれ、黒木さんも合格してたんだ」
「ええ。僕も合格していました」
川村はそれほど親しくはないが、誠が診断士を目指した時から一緒に講座を受けていた顔見知り、いわば資格スクール時代の同級生だった。川村は勝ち誇ったように話し始めた。
「俺たちの仲間も最初はたくさんいたけど、ほとんど資格は取れなかったみたいだね」
「そのようですね。挫折されていった方も多数いたようですね」
「それはそうと、桧山さんが亡くなったこと知ってる?」
「えっ!」
桧山は去年、電話でゴルフの約束をしながら連絡がないので、すっかり忘れていた。
「桧山さんとは昔グループ学習で同じだったんで、年末に一応慰労会のお誘いをしたんだ。そしたら、お母さんが出てこられて、息子は先日亡くなりましたって」
「そうだったんですか」
「マンションの屋上から飛び降りたらしいよ」
川村は対岸の火事を見て面白がる野次馬のように、笑みを浮かべながら話し続けた。
「遺書とかは特になかったらしいけどグループ学習の人間の噂じゃ、診断士試験の勉強や人間関係のことでいろいろ悩んでいたらしいよ」
誠は一瞬あの時の会話を思い出し、桧山の自殺の原因をいろいろ勘繰った。
桧山の自殺の動機が誠でないにせよ、自分の言葉の幾ばくかが桧山にプレッシャーを与えたことは間違いなかった。いざ、実習が始まると桧山のことどころではなかったが、誠の心の片隅には桧山の死がずっと引っ掛かっていた。
誠は桧山の自殺を、一度は諦め掛けた金村へのリベンジに利用できないか考えた。これは、きっと何かに使えるはずだ。桧山も誠がされたように、金村から様々な嫌がらせを受けていた。どうしても金村の息の根を止めてやりたい。
桧山の自殺の原因を何とかして金村に押し付けることはできないだろうか。
誠は桧山の電話番号は知っているが、たいした付き合いでないので住所までは知らない。しかし、電話を掛けていきなり住所を聞き出すのはさすがに無礼だと思ったので、川村から桧山の住所を聞き出した。
実習が終わり、誠は中小企業診断士として正式に登録された。
四月になり、誠は新たに就職したコンサルタント会社に通い始めた。
誠は用意周到に計画を立て、準備に取り掛かった。
五月の連休の後、誠は電話で訪問する旨を伝えおいた上、桧山の自宅に向かった。最寄り駅から何度も迷いながら、やっと桧山の家まで辿り着いた。桧山の実家は都内の下町にある粗末な木造の一軒家だった。一目で裕福ではない生活ぶりが伺い知れた。
今時、都会では珍しい玄関の引き戸を開け「ごめんください」と声を掛けた瞬間、奥から黴の饐えたような臭いが漂ってきた。日当たりが悪いせいか昼間でも薄暗く、湿気もたまっていそうだ。
数分待たされた後、憔悴しきった六十代半ばくらいの母親が出てきた。
「桧山さんの友人の黒木と申します。この度はご愁傷さまでした」
「お電話の方ですか。息子のために遠路はるばるおいでいただき、ありがとうございます」
玄関で靴を脱ぐと仏間に導かれた。誠は仏壇の前の線香をあげて遺影に手を合わせた。
「息子さんのご逝去の報をうかがって、驚いて胸もつぶれる思いがしました。お母様のお嘆きの深さはいかばかりと、お察し申し上げます」
母親の話では、桧山は一人っ子でずっと両親と暮らしていたが、桧山が小学生の頃に父親を不慮の事故で亡くしたという。誠はそれとなく探りを入れた。
「桧山さんとは診断士の受験仲間で、とても懇意にしていただいていました。私が合格した時もまるで自分のことのように喜んでくれて。昨年も今度、ゴルフでも行こうって約束していたばかりで。それから連絡がなく、突然の訃報を聞きまして。本当に残念です」
「息子とそんなに、仲良くしていただいたのですか」
「ええ」
誠は心にもない返答をした。
「ところで、桧山さんは資格試験のことで悩まれていませんでしたか?」
誠は敢えて先手を打って、母親に鎌をかけてみた。
「さあ。どうだったでしょう。主人が早く亡くなったので、茂雄を大学までやることはできませんでした。そのため就職も希望通りにはいかなかったようですが今度、資格を取って条件の良い会社に転職するとか言って学校に通って頑張っていました。でも、息子は仕事のことや自分のことはあまり話す方ではなかったので、詳しいことはよくわかりません」
「そうですか。ただ、私も受験を続けていてずっと受験仲間だと思っていた人間から散々、嫌がらせを受け酷い目に遭ったものですから。桧山さんも、きっと同じような目に遭っていたのではないかと思いまして」
「茂雄は仕事が忙しくてなかなか資格の勉強が捗らないとはよく言っていましたが、嫌がらせされたような話は今まで一度も聞いたことがありません」
「それでは、資格試験のことで誰かにプレッシャーを掛けられていたとか、そういうことは話されていませんでしたか?」
「どうでしょうか。具体的な名前とかは聞いたことがありません」
それを聞いて誠は密かに安堵した。桧山はどうやら自分のことは母親に話していないようだ。
八月になり、今年も一次試験の日がやってきた。
誠は中小企業診協会の正会員になり、会員だけができる試験監督のアルバイトに募集して無事採用された。
誠はこの日のために、入念な計画を立てていた。
試験当日、誠は大学の受験番号と教室が表示される掲示板の前で、ある人間を待ち伏せしていた。受験生が不安そうな表情を浮かべながら受験する教室を確認しに来る。奴は試験開始一時間前に必ず、ここに来るはずだ。誠は獲物を待つ蛇のように、その時をじっと待っていた。
やっとその時が来た。一際貧相な身なりをした初老の男が誠の前に現れた。
金村だ。やはり、今年も受験するつもりらしい。誠は無遠慮に声を掛けた。
「おい! 性懲りもなくまだ受けるつもりなのか? いい加減もう諦めろよ」
金村は自分に掛けられた罵声を聞いて振り返った。金村は顔面が蒼白になっている。
「おまえが何で、ここにいる?」
「オレは今、中小企業診断士の試験監督だ。おまえはいまだに受験生、オレは受験生から足を洗って試験監督だ。おまえにとっちゃ、天国と地獄ほどの違いだろうけどな」
真夏の強い日差しに加え騒がしい蝉の声に、立っているだけでも目が眩みそうになる。
「もっとも、おまえは毎年受かろうとして受けてないらしいからいいけど。それとも、また、何か悪だくみをして誰かを待ち伏せでもしてるのか?」
心の中を見透かされた金村はその場所で固まり、立ち竦んでいる。
「それはそうと、おまえたいへんなことやらかしたらしいな。桧山はおまえから散々、いじめや嫌がらせをされて自殺したんだってな。おまえのいじめが原因で自殺したとしたらおまえ、人殺しだよ。こんなところで悠長に試験なんか受けている場合なのか?」
桧山へのいじめに心当たりがある金村は、誠の先制攻撃が効いたとみえ怯えている。
「しかし、桧山も可哀そうにな。不憫で自宅まで線香上げにいったら母親がおまえのことを恨んで、息子を返してくれって嘆いてたよ。おまえみたいな人間の屑が堂々と生きていて、桧山みたいに善良な小市民が死を選ぶんだから世の中、まったく間違ってるよな」
誠は話をでっち上げた上、できるだけ大袈裟に盛って、金村を執拗に追い込んでいった。
その時だった。まるでボクサーのダウンシーンように、金村はゆっくりと崩れ落ちていった。受験生の間から「おい、人が倒れたぞ。誰か、救急車を呼べ!」という声が聞こえる。
誠は金村を見下ろしながら、ゆっくり声を掛けた。
「おまえにはもう、戦う気力は残っていない。それとも、今から記念受験でもしていくか?」
ほどなく大学構内から救急隊が駆け付けた。
誠は担架に乗せられ運ばれていく憐れな金村を眺めながら思った。金村はおそらく試験どころじゃないだろう。しかし、あれでよかったのだ。すべては此奴の因果応報なのだ。
誠は試験監督のバイトに戻るため教室に急いだ。
その年の診断士試験は金村の救急騒ぎがあったもの、二日間滞りなく終了した。受験生の暑い戦いが終わった。しかし、二次試験を控える受験生は気を抜いている暇などない。
秋風が吹くころ突然、誠の元に一通の手紙が届いた。
差出人は桧山の母親だった。香典を渡した際、住所だけでも教えてほしいと懇願され嫌々、署名した憶えがある。しかし、今さら桧山の母親が自分に何の用だと、誠は怪訝に思いながら封を切った。元々、桧山が自殺したことなどたいして興味もなかったうえ、手紙が年寄くさい崩し字で読みにくいので、気乗りしなかったが誠は渋々読み始めた。
「先日は、茂雄の死去にあたり、ご多忙中のところ、わざわざ仏前にお参りいただき、また、ご丁寧なお悔やみのお言葉を拝受いたし、まことにありがとうございました」
誠は退屈な文面に、そのまま手紙を部屋のゴミ箱に捨てようと思った。
しかし、その次の文面を読み始めた時、誠は顔面が凍り付いた。
「先日、息子の遺品を整理していましたところ、参考書の中に記録紙の裏にメモ書きのようなものが残されていました。そこには先日、あなたが言われていた“嫌がらせ”について書かれてありました。茂雄はたしかに高卒で学歴がないことで不当な扱いを受け悩んでおりました。一念発起して、中小企業診断士を目指したのもそのためだったようです。
しかし、本人は学歴に負い目があったものの、資格試験は本来学歴などと関係がないので、一生懸命努力を重ね頑張っておりました。しかし三度目の試験にも失敗してしまい、一時は諦めようとも考えたらしいですが、もう一回だけチャレンジしようと再度やる気になったようです。そんな時、茂雄はある人間から息の根を止めるような言葉を吐かれたそうです。茂雄はそのことに大きなダメージを受けてしまったようです。
その人間は自分と同じ時期に勉強を始め今年、合格したとだけ書かれておりました。受験仲間は何人かいたようですが、記録紙の裏には頭文字でKとだけ書かれておりました。
『Kの態度が豹変した。合格したらまるで別人のようになって、俺を目の敵にし始めた。先日、Kから息の根を止めるような言葉を吐かれた。中小企業診断士試験に四回目で合格した人間はいない。たとえ資格を取っても大卒でなければ転職もできない、独立してもコンサルタントにはなれない。Kは、地の果てまで俺を追い詰めてくるつもりだ。Kは、まるで俺で憂さ晴らしをしているようだ。俺は完全にKの標的にされている・・・・・・』
そんなメモが参考書の中に何枚か挟まれていました。私はこれが、茂雄の遺書でないかと考えました。そこには先日、あなたの言っていた言葉の意味が集約されていたからです。ところで、あなたの頭文字はKです。頭文字がKの人間など世の中にたくさんいます。しかし、茂雄の受験仲間ならKはあなたと考えてまず、間違いありません。
茂雄がこんなメモをわざわざ記録紙の裏に残したのも不自然に思いましたが、「記録」を逆さから読めば「くろき」で、「黒木」は、あなたの苗字そのものです。
茂雄にもプライドがあったので実名は出したくなかったようですが、亡くなる前に何かを伝えたかったのでしょう。しかし、母親の私だけは直感でわかりました。茂雄が散々嫌がらせやプレッシャーを掛けられていた人間は、じつはあなたです。
おそらく、あなたは茂雄の自殺を知ってかなり動揺したのです。そして、その原因が自分でないかと思い、探りを入れるため自分も被害者を装い、わざわざ家までやってきたのです。あなたも資格を取るまでは相当酷い目に遭ってきたことでしょう。しかし、あなたは合格したことで、今度は今まで自分がされたいじめや嫌がらせの憂さ晴らしをいえ、復讐を考えたのでしょう。そして、その相手に選んだのは若く、一番弱い立場の茂雄でした。あまりに卑劣かつ巧妙な企みでした。
しかし残念なことに、茂雄が自殺した原因はこれ以上追求することができません。あなたが茂雄を最後に自殺に追い込んだという確固たる証拠はありません。また、あなたから受けたいじめさえ立証することはできません。まさに、あなたは逃げ得です。しかし、茂雄を死まで追い込んだのは間違いなくあなたです。それを素知らぬ顔で来て、平然と仏壇で線香まで上げる演技ができるあなたは末恐ろしい人間です。本当に恨むべき相手はあなたでした。
最後に、この手紙は読んだら(言われなくてもそうするでしょうが)捨ててください。私もあなたのことは二度と(私が死ぬまで無理だとは思いますが)思い出さないつもりです」
誠は手紙をすべてを読み終えた。
桧山の母親が言うとおり、桧山が死を選ぶように背中を後押したのは誠かもしれない。とどめを刺したのも誠かもしれない。ただ、誠にとって意外だったのは、桧山のメモに金村への恨みが一言も触れられていないことだった。桧山にとっては、年長の金村より歳も近い誠から言われた方が大きなダメージを受けたのだろう。桧山は元々、誠の受験仲間のひとりに過ぎなかった。
しかし、桧山も金村から様々な嫌がらせを受けていた。そういう意味では、誠と桧山にとって金村は共通の敵だった。誠が本当にリベンジしたかった相手は金村だ。ところが、桧山はある日突然、誠を裏切ってきた。桧山が金村の手下になり、誠にあんな電話さえ掛けてこなかったら、誠が桧山に血も涙もない言葉を吐くこともなかっただろう。
誠を逆恨みして犯人扱いするのは自由だが、桧山の母親はそれまでの経緯を知らなすぎる。桧山は結局、弱いから死を選んだ。それ相応の能力もあり、意志も強ければ他人の嫌がらせなどにも屈せず、中小企業診断士試験に合格して見返すことだってできたはずだ。
勝手に自分の人生に失望して死を選んだくせに、それを今頃になって誠一人に責任転嫁されても困る。誠は良心の呵責を覚えるどころか、罪の意識など微塵も持てなかった。
誠は思った。
(でも、やっぱりあのことってバレちゃってたのか。長年のリベンジ果たしたつもりが、逆にリベンジされちゃったって。これが本当の倍返しってか!)
誠は大笑いしながら、手紙をゴミ箱に破り捨てた。
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