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2.下痢
家に帰ってきて玄関を開けて最初に気づいたのは……臭いだった。
いわゆる、排泄物の臭い。しめきった部屋の中、俺の顔面に襲い掛かってきたそれにぎょっとしながら俺は室内へおそるおそる足を踏み入れる。
「トリトン?」
声をかけるが姿が見えない。視線を彷徨わせ、俺は絶句した。ラグの上に点々と排泄物らしいものが散らばっていた。しかも……いつも固形なのにぬらりと柔らかい。
「ちょ! なんだこれ! おい! トリトン!」
大声を上げトリトンを呼ぶと気配を感じた。トリトンはソファーと壁の隙間に隠れるようにしてこちらを覗いていた。慌てて駆け寄るとますます奧へ入っていこうとする。俺は焦って手を伸ばし、トリトンの体を捕まえた。
「トリトン! 大丈夫なのか? おい!」
声をかけ、トリトンと目を合わせる。トリトンは無言のまま俺の顔を見つめ返す。とりあえず、目に力はある。あるが……これは明らかに下痢をしている。こんなこと、これまでになかったのに。
どうしよう、どうしたらいいだろう。どうしたら。
頭がぐるぐるする。とっさにスマホを取り出す。ニイナにトリトンが大変だ、とLINEを打ちかけて俺は手を止めた。
トリトンが大変だと言ったらニイナなら駆けつけてくれるはずだ。ニイナだってトリトンが嫌いで置いていったわけではないのだから。
ニイナが戻ってきてくれる。
瞬間、心が浮き立った。けれどそこでふっと我に返る。
トリトンを言い訳にしてニイナに連絡をしたとする。でも駆け付けてくれたとしてもそれは一時のことでしかない。ニイナはトリトンを捨てて行ったのだ。一時顔を見られたとしても別れはまた来る。
ごめんね、かっちゃん。
眉を下げ、号泣しつつそう言ったニイナの顔を思い出し、俺は首を振る。
あんな瞬間をまた経験するなんてごめんだ。
「トリトン、病院へ行こう」
トリトンにそう呼びかけるがトリトンは意味がわかっていないのか、丸い目でこちらを見返すばかりだ。それに構わず、俺はクローゼットを開けた。上段にトリトン用のキャリーケースが見える。引っ張り出して中を開けてみると、キャリーケースの側面のポケットに診察券が入っているのが見えた。近所の動物病院のものだ。
ほっとしつつ俺はトリトンを振り返る。トリトンはキャリーケースを見ておじけづいたのか再びソファーの影に隠れる。俺は短く舌打ちし、トリトンを捕まえた。ううう、と低くトリトンが唸ったが、無視して彼をキャリーケースに押し込み、俺は部屋を出た。
「検査しましたけれど、特に異常はみつかりませんでした」
トリトンのかかりつけ医である立石先生は、柔和な笑顔で俺にそう言った。
「あの……でも部屋中、下痢便で大変で……」
思わずそう言い返すと、下痢便で大変……と繰り返してから、彼は軽く首を傾げた。
「うーん。なにかいつもと違うものを食べたとか、ちょっとした体調の変化で緩くなってしまう子は多いですけどね。ああ、あと、突然の環境の変化についていけなくて、なんてこともあるかな」
「環境の、変化」
それはあれだろうか。やはりニイナが出て行ったことが原因だろうか。
俺は所在なげに診察台の上をくんくんと嗅ぎ回っているトリトンを見下ろす。
「あの……家族が、その、帰ってこないとか、そういうことがあると調子悪くなったりすること、あります?」
「え?」
先生は俺の言葉にきょとんとした後、そうですねえ、と頷いた。
「まあ、そういうこともありますね。犬も人と同じですから。心配事があると体の調子が崩れちゃったりすることは珍しくありません。……なにかあったんですか?」
「あ、いや」
さすがに初対面の獣医に彼女が出て行ったなんて伝えるのは恥ずかしい。俯くと、彼はしばらく沈黙してからトリトンの背中を撫でながら言った。
「まあ、それでも順応性があるところもまた犬が人と通じる部分でもあります。薬を出しておきますから、少し様子をみましょうか」
おっとりと微笑みかけられ、俺は頷く。その俺に向かい、彼はふっとなにかに気づいたように言った。
「おくすりの飲ませ方、わかりますか?」
「飲ませ方……ですか?」
「はい。人と違って犬は言葉が話せませんからね。人が確実に飲ませてあげなければなりません。飲ませ方、お伝えしましょうか?」
そうか、確かにその通りだ。
これまではニイナに全部任せていたから俺は飲ませ方を知らない。ぎくしゃくと頷いて俺は教えを乞うことにした。
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