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3.これと、同じ
出してもらった薬は小さな白い錠剤だった。
──フードに混ぜてあげてみてください。できるだけ薬を細かくしてご飯に紛れ込ませるんです。そうすると気づかずに食べてくれますよ。
「トリトン、飯だぞ」
飯、の言葉にトリトンがやってくる。下痢をしている今は消化が良いものを、という助言を受け、いつものカリカリにお湯を注いでふやかし、その中に薬を紛れ込ませた。
見た目にはまったくわからない。これなら飲んでくれるだろう。
トリトンが器を前に一瞬固まる。ふやかしたご飯を食べるのはもしかしたら初めてだったかもしれない。戸惑うようにこちらを見るトリトンに、食べろよ、と俺は促す。
ひげをひくひくしてから、トリトンが器に顔を近づける。少しだけ口をつける。が、数粒口に運んだところでふいっと食べるのをやめてしまった。
「トリトン? ほら、飯だって」
器を持ち上げ、トリトンの顔の前に出すが、視界に入るのを拒むようにトリトンは顔を背ける。
「は? いや、お前、食べないとだめだって。ほら、ちゃんと食べて、な」
なだめてもすかしてもトリトンは器を見ない。そのままお尻を上げて玄関へと向かった。そうして扉が開くのを待ちわびるようにこちらに背中を向ける。
もう、一週間なのに。
それでもトリトンはニイナを待っている。
その背中を見ていたらどうしようもなく腹が立った。
「トリトン! 帰ってこないんだって。ニイナはもう!」
怒鳴るがトリトンは相変わらず背中を向けたままだ。
──かっちゃんはさ、別に私がいなくても生きていける人だと思うよ。なんていうか好きなこととかやりたいこと、いっぱいあるじゃん。
必死に待ち続けるトリトン。その背中を見ている俺の耳にふいに蘇ってきたのはニイナの声だった。
あれはなんのときだったのか。確かニイナと旅行を約束していた日に会社の先輩から呼び出しを受け、旅行をキャンセルすると俺が告げたときだ。
先輩からの呼び出しは仕事のサポートを依頼してきたものだったし、そのころの俺は仕事でなんとか成長したいと我武者羅になっていた。ニイナと自分の夢。優先すべきものがどちらか、俺は迷いもしなかった。
もちろん悪いと思う気持ちだってなかったわけじゃない。だから、ごめんな、埋め合わせは必ずするから、と両手を合わせて言ってはいた。
けれど埋め合わせがいつになるのか、なにをもって埋め合わせようか、そんなことはかけらも考えていなかった。
──なんていうか、待っているのはいつも私って感じなんだよね。
怒りも不満もニイナの声には含まれていなかった。ただ、疲れたみたいな諦めの色だけがそこにはあった。
俺はそれを聞いてほっとしてしまっていた。ああ、よかった、理解してくれたんだ、と自分に良いように解釈して大したフォローもしなかった。
俺は手にしたままの器に目を落とす。
ふやふやにふやかされ膨張し始めたドッグフードの中の白い錠剤。
俺のニイナに対する対応はこんな感じだったのかもしれない。
隠そう隠そうとしたって俺がニイナを軽んじてしまったその心は隠しきれない。ニイナならいいだろう、謝っておけばいいだろう、どうにかなるだろう、だろうだろう。
そればかり。
けれど結局、ニイナにはお見通しだった。本心を隠した俺の言葉はニイナには筒抜けで、待つことに疲れたニイナは顔を背け、家を出て行った。
俺はもう一度トリトンの背中を見る。
トリトンは変わらぬ姿勢で玄関を見ている。三角形の耳をぴっと立てて、彼女の足音を聞き漏らすまいとするように。その彼の姿を見ていたら涙が出てきた。
俺の身勝手でニイナは出ていき、そのせいでトリトンまでもがニイナを失った。
俺と違ってこんなにもこんなにもニイナを大切に思い、待っているトリトンから俺はニイナを奪ってしまった。
そう思ったら胸が痛くてたまらなかった。
「トリトン」
俺の声が滲む。トリトンの耳がかすかに揺れた。
「ごめんな、トリトン」
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