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4.一緒にいてくれ
そうっと呼びかけ、背中からトリトンを抱きしめる。小さすぎるその体からコトコトと速い鼓動が振動となって伝わってきた。
心臓の音一つひとつがニイナを呼ぶ声に思えた。
トリトンの体から腕を解き、俺はスマホを引っ張り出す。まだ体に残っているトリトンの心音に急き立てられるようにスマホを操作すると、ニイナのIDを呼び出し、音声通話をタップした。
呼び出し音が、長く、長く、響いた。
繋がらないことも予想はしていた。でも……それでもスマホから耳を離すことができなかった。出てくれ、出てくれ。呼び出し音に願いを込めて念じていると、ぷつり、と回線が繋がる音が響いた。
『かっちゃん?』
ニイナの声がした。
「トリトンが、下痢しちゃって大変なんだ」
ごめんとか、帰ってこいとか、そんな言葉よりも先に飛び出したのはこんな台詞だった。
え、とニイナが電話の向こうで絶句する。俺は小さく深呼吸をして続けた。
「薬、医者にもらってさ、餌に混ぜて食べさせようとしてるんだけど、食べないし、飲まない。どうしたらいいかな」
ニイナは長く長く黙った。迷うような吐息が電話の向こうから聞こえて俺も息を詰める。ややああって、くすりは、とニイナが口を開いた。
『くすりは……多分、ご飯に混ぜてもトリーは飲まないと思う。臭いに敏感だから苦いものだってばれちゃうんだ。だから直接口の奥に入れて、口をすぐ両手で閉じるのね。で、喉を撫でてあげるとごくんってするからそれで飲ませて』
なんだそれ。難易度高そうだ。帰ってきて飲ませてやってくれよ。そう言おうとした。でもやめた。ニイナが電話の向こうで泣いている気配がしたから。
「わかった。まあ、やってみる」
『かっちゃん』
淡々と言った俺の声を引き止めるようにニイナが俺を呼んだ。
『ごめん、かっちゃん。勝手すぎるよね、私。かっちゃんもトリトンも振り回して。トリトン大変なときでも帰るって言えないなんて。私、ほんと、最低だよね』
電話の向こうでニイナが声を詰まらせる。けれどそれに対してどう言っていいのか俺はわからなかった。
帰ってきてほしかった。でも……こんな風に泣いてしまうニイナがそれでもここを出ていくと決めた原因は俺にあって、その俺がニイナを責めることなんてできなかった。
でもこれだけは言いたかった。
「俺には謝らなくていい。ニイナが出て行ったのは俺のせいだから。
でもトリトンにはずっと謝っててくれ。トリトンは、本当はお前の手から薬だって飲みたいはずだから」
ニイナがふっと息を吸い込む音が聞こえた。鼻水をすする音に混じって、ごめん、とニイナの詫びる声がまた響く。
トリトンに彼女のその声を聞かせてやろうか、と瞬間思ったけれどやめた。じゃあな、と短く言い、俺は電話を切った。
大きく肩で息を吐き、スマホを床に置く。そのがつん、と鈍い音にトリトンがつとこちらを振り向いた。
「トリトン」
呼びかけ、トリトンの背中を撫でる。トリトンが軽く首を傾げた。
「薬、飲もうか。お腹、早く治さないと飯も食えない」
トリトンは無言だ。俺はトリトンに一度笑いかけると、室内に戻って医者からもらった薬袋から新しい錠剤を一粒出してトリトンの前に戻った。トリトンは相変わらず、不思議そうに俺を見上げている。
小さな彼の体を抱き上げ、膝の上に乗せ、トリトンの口を上下に開く。トリトンがいやいやをするように首を振る。
「トリトン、頼むよ。もうさ、俺しかいないんだから」
頼むよ。頼むよ、トリトン。
言葉なんて通じるはずがない。気持ちなんて伝わるわけがない。彼は犬で俺は人で。そう思っていた。でも言わずにいられなくて何度も何度もそう言うと、ふっとトリトンがいやいやをやめた。
そろそろと手を伸ばし、彼の口を上下に開く。少しドッグフードの香りのする息が俺の鼻をくすぐった。
「えらいな」
声をかけ、俺は錠剤を彼の喉に落とした。そのままニイナの言う通りすぐに手でトリトンに口を閉じさせる。
「よし、飲もう。飲んじゃえ。トリトン」
声をかけつつ喉をなでさする。
飲み込んでくれ。飲み込んでくれ。
哀しいのも苦しいのもわかってる。でももう俺しかいないから。だから、頼む。飲んじゃってくれ。飲んじゃって俺と一緒にいてくれ。
祈るように何度も何度も喉を撫でると、トリトンの喉がこくん、と動いた。
薬が彼の体の中へ落ちて行ったのがわかった。
「偉いな、トリトン」
そう言ってトリトンの頭を撫でると、トリトンは大きな目をふるふるさせてから、伸び上って俺の頬をぺろりとなめた。
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