神の遣水

2/2
前へ
/2ページ
次へ
 歩く道は朝露が乾かずにやや湿っており蒸し暑さもある。ただ木々で日光が遮られているおかげで、コンクリートばかりの住宅街より快適だった。  水路に沿って辿り着いたのは山肌から水がちょろちょろと流れるスポットで、観光向けなのか立て看板に水のおいしさがアピールされている。神社の手水舎(ちょうずや)によくある龍の頭を模した蛇口があった。その脇に森に続く小さな階段がある。 「どこから流れてくるんだろう。そもそも地図に川の名前があったっけ?」  資料集や地図帳を見ても大きな川ではないからか、特に記載がなかった。もちろん街の水路も一般的な地図上には現れない。  蝉の鳴き声と草や枝を踏む足音と、水が遠くで流れる音。知りたい。知りたい。知りたい。寄り添うように流れる水路の水は、たった今水筒に入っている麦茶を煮出す水は、いったいどこを通ってくるのか。  その思いだけで森へ続く道を進んだ。  水の音が変わった。流れる水の音ではなく、しみだした水が、何かに反響する聞きなじみのない音。ぴちょん、ぽとん、ぽたぽた、どれでもない。 「あれ、こどもだ」 「えっ?」  楽器のようにどこまでも響く音は、本当に水なのか?とあたりを見渡すと、ヒトの声が聞こえた気がした。でも見当たらない。 「ふふ、こっちだよ」  頭に水滴がびちゃりと落ちてきた。ばっと勢いよく顔をあげると、見知らぬ少年が目の前にいた。自分と同い年か少し上の背格好。少年であっているかもわからない、髪の短い女の子にさえ見える。 「だ、だれ」  緊張のあまり単語しか出てこない。二文字の問いに、少年は柔らかく微笑んで口を動かした。 「ボクは“     ”」  でも僕は聞き取れなかった。確かに口を動かして何かを喋ったのに、音を耳で拾ったのに言葉を理解できなかった。 「それ、何が入ってるの?」 「麦茶……」 「へぇ」 「飲む?」 「そこに水が流れてるのに?」 「その水で作ったんだよ、飲んでみてよ」  すっと指さされた水筒の中身を、こぼしそうになりながら蓋のコップに移して差し出した。 「確かに、ボクだ。これ」 「えっ?」 「贈り物をありがとう。今年は嬉しいなぁ」  夏の子供にしてはひどく生白い腕を伸ばしてコップ受け取った彼は、嬉しそうに口を付けた。飲み干すとぺろりと小さく自分の唇を舐める。 「お礼にいいものをあげる。ついてきて」  先ほどと同じように水の流れに沿って道とは呼べない道を昇るように進み続ける。川に満たない小さな流れ。少年に導かれて辿り着いたのは、小さな祠だった。森の入り口にあったように、ここから水が出ていますよといったような出で立ちだ。  少年はおもむろに祠を開けて、中に入っていた徳利を持ってきた。 「杯を持って」  ハイ?と言われてよくわからなかったけど、僕は何となく水筒の蓋を差し出した。とくとくと注がれるのは透明な液体。大人たちがそれにお酒をいれることは知っていたから、口をつけることに渋っていると少年は不思議そうにこちらを見てきた。 「どうしたの?」 「お酒だったら飲めないよ、僕たちは子供だから……」 「ふふ、確かにそうだね」  おかしそうに笑ったと思ったら、少年は豪快に徳利に口を付けて飲み干して見せた。 「ほら、ボクは大丈夫。甘露……甘いお水だよ。キミたちはじゅ、じゅうす?っていうのかな」  そう言われてコップを顔に近づけると、ツツジの蜜のような甘い香りがする。えいっと傾けて中身を口に流し込んだ。ほんの一口の少ない量。飴湯のような、でも不思議な花の香りがする飲み物は、ふわふわと幸せな気分になる。 「美味しい!もっとちょうだい!」 「向こうにもあるよ、こっちへおいで」  笑顔でそう言うと少年は満足げにうんうんと頷いて僕の手を引っ張った。踏み出した足がいつの間にか、ばしゃんと水を蹴ったことさえ、僕はどうでもよくなった。  国内随一の水の町。水路と共に暮らす生活。何年かおきに、住民の中から水の事故ではない行方不明者が出る。だって彼らは皆「山へ行く」と言っていたのだから。  『河上に赴いてはいけないよ。神様がお住まいだからね』
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加