石の音

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石の音

 本題に入る前に、まずはそこに至った経緯から語ろう。  この体験をした人物――仮にAとする――がまだ中学校に通っていた頃の話だ。盆から一週間後の土日を挟んだ数日間、Aは両親と共に遠方で暮らしている父方の祖父母の家へと赴いた。盆を外した理由は、サービス業に従事する両親の出勤日の都合によるものである。連休はずれてしまったが、母方も含めA一家以外の親戚は皆近い場所に居を構えていたので、土曜日には示し合わせた訳でもないのにほぼ全員が祖父母の家へと集まった。しかし、それだけ大人数がいるにも拘らず、Aは暇を持て余していた。大人は大人だけで歓談し、子供は地元で暮らす他の子供達と話している。会話の内容に聞き耳を立ててみたが、理解すら出来そうにない内輪の話ばかりであったので、割って入る気は起きなかった。然りとて所在なさに耐えられる訳でもなく、Aは母親に付近を散歩する旨を伝えて家から出て行った。久方ぶりに再開した親族との話に夢中であったのと、この近くを一人で散歩するのは初めてではなかったこともあって、彼の母は止める素振りすら見せなかった。  祖父母の家の周辺は、南側には県下で最も大きな川が、東側にはその支流である小川が流れており、西側には田畑と繁華街へ続く道路が通っている。また、北側には民家や店が立ち並び、住宅地の向こう側には山が幾つも連なって見えていた。北側に点在する店は、何れも街暮らしの子供が入るにはいささか勇気のいる個人経営の商店であった。だからAは北側へは行かずに南側の川原へと向かい、そこから東側へと景色を眺めながら進んだ。  この辺りの川は護岸工事がされていない。地面は石ころと草で覆い尽されている。足場は悪くAはよろめきながら歩いたが、その歩き辛さが彼にとっては逆に心地良く感じられた。もやもやとした思いを忘れて、無心になれたのだ。少年はいつしか景色ではなく、地面を覆い尽す石を見るようになっていた。  それから、一時間ほど経過した。Aが普段暮らしている地域だと、彼くらいの年齢であっても「子供から長時間目を離して」と眉を寄せる者が少なからず存在するのであろうが、この辺りでは子供達だけで遊ばせておくのが普通である。Aも祖父母の家へ来ると、昼食を取ってから夕方頃までの時間は放置されることが多い。時には数時間川原でぶらぶらして過ごすこともある。しかしながら、この時の彼は何となく戻る気分になって土手の方へと向かった。  さて、事が起こったのはこの後である。帰路に就いたAの背後から、からからという乾いた音が聞えてきた。彼が足を止めると音は止まり、後ろを確認してみるも誰もいない。川原には、上流から流されてきたか不届き者が遺棄したであろう塵がそこかしこに落ちているので、それらが風に煽られて転がっているのだろうと初めの内は思っていた。けれども、奇妙なことに音は決して遠ざからず、違和感を覚えた彼が振り返る度に止まるのである。遂には舗装された道に来てからも、やや調子を変えて音は鳴り続けたのであった。  石で覆われている所為で視覚情報の多い川原ではなく整備されたコンクリートの上ならば、転がっていた物の正体も見えるだろうと考えたAは、再び振り返った。結果、期待通りにそれらしい物を見付けた。色褪せ罅割れた歩道のちょうど真ん中に、元は川原にあったであろう小石が落ちている。見てくれだけは何の変哲もない石だ。これが転がれば確かに先程の様な音になるであろうと想像は付いたが、問題はどうやって行われたかだ。彼は今、土手を越えた先の道にいる。もし目の前の石が彼を追っていた音の主であるならば、この石は土手を横切る坂道を上り下りしたということになる。だが、それを成し得るほどの強風は、彼が川原からここに来るまでにただの一度も吹いてはいないのだ。  いよいよ恐ろしくなったAは走り出した。嫌な予感は的中し、石の転がる音も彼に併せて早くなる。やはりあの石は不可解な力の助けを借りて彼に付いて来ているのだと察した。逃げている途中、分かれ道があった。左側は祖父母の家へと向う道であったが、Aは直進方向へと進む。曲がっている間に距離を詰められる可能性があったからだ。彼はとにかく逃げ切ることを優先した。  土手沿いにあった道は次第に川から離れていった。どうやら北側にある住宅地とも違う場所へ向かっていたようで、Aはやがて人気のない場所に行き着く。道の片側には林があって住宅地から見えなくなっている場所だ。走り続けた疲れも相まって彼は足を止めた。見たくはなかったが念の為に後ろを確認すると、道の上にはやはり先程の石が初めて見付けた時とほぼ同じ距離を保って鎮座していた。Aは未だ嘗て感じたことのない恐怖に襲われた。目一杯叫んで再び走り出したかった。だが、出来なかった。足を止めた時、我武者羅に走り続けた所為で溜まっていた疲労が一気に押し寄せてきたのだ。息は熱く、汗が泉の様に噴き出し、腰から下ががくがくと震えて最早一歩も動けなかった。  Aは目に涙を滲ませながら考えた。あの石は何が目的で自分を追っているのだろう。自分が一体何をしたというのだろう。これから自分はどうなってしまうのだろう。幾ら考えても答えは見えなかった。  潤んだ下瞼から涙が流れ落ちた時だ。Aの背後、つまりは今まで彼が走っていた方向から「かあ」と間の抜けた音がした。振り返ってみると道の中央に大きな烏がいて、彼の顔を見上げている。烏はもう一度「かあ」と鳴き、彼の目をじっと見詰めた。真っ黒で狡賢い不吉の象徴である。彼は烏に良い印象を受けなかった。川原から付いて来た石と同じく、もしかしたら彼に害をなす存在なのではないかと疑った。同時に、何故自分ばかりがこんな目に、と嘆いた。  一方烏はというと、彼に別の反応を期待していたようで、業を煮やして飛び掛かってきた。Aは悲鳴を上げながら目を瞑り、両腕を前方に出して顔を庇ったが、烏の攻撃は止みそうにない。彼は我慢できなくなり、烏が襲ってくる側とは逆の方へと逃げ出した。木々が生い茂る左手側に、である。  Aは道なき道を必死に逃げた。短い時間ではあったものの立ち止まっていたお陰で、体力は幾分か戻っていた。振り向く余裕はなかったが、鳴き声と羽音はすぐ近くから聞こえ、烏がまだ彼を追っていることが窺い知れた。石の方は分からなかった。烏の暴れる音や彼が土や草を踏む音が、石の移動音を掻き消してしまっているのかもしれない。  暫くしてAは開けた場所に出た。彼は思わず足を止める。神社である。過去に一度訪れたことのある場所だ。敷地は然程大きくなく建物は古い。恐らくは誰も常駐していないのであろう。今も、何年か前に散歩のついでに立ち寄った時にも人の気配がなかった。寂れ切っていて薄気味悪いが、それでも名目上は神聖な場所だ。彼は縋る様に社の方へと歩みを進めた。だがそこで、ころんという音が響いた。  あの石である。視界も足場も悪い林の中までも抜けてきたのだ。しかし、よく見ると今までとは全く違う動きをしていた。石は歩道の上にあった時よりもずっとAから離れた場所に留まり、その場でころころと転がっているのである。風もないのに、独りでに。まさしく奴が普通の石でないことの証左であった。石は方針を決めかねているのか、ただ転がり続けるばかりであったが、やがてAと距離を詰めることにしたのであろう、ゆっくりと動き出した。釣られてAは後退りしたが――。 「かあ」  締まりのない鳴き声が響いた。次の瞬間、林の中からAを襲った烏が飛び出してきて、彼と石のちょうど真ん中に降り立つ。  Aに向かって進行していた石は、突如動きを止めた。烏はその様を一瞥し、特に急ぐでも警戒するでもなく石の許へと歩いていく。目的地まで到着すると烏は数秒石を睨み付け、くちばしでこつこつと突き始めた。突くこと数回、石は突如として砕け散った。  川原から来た不気味な石が完全に動かなくなったのを確認すると、烏はAの方へと振り返った。少しの間だけ彼の顔を見詰めていたが、やがて羽音を立てて飛び立ち、うっすらと苔の生えた屋根に止まる。静かにAを見下ろす烏からは、もう襲ってくる気配は感じられなかった。  もしかすると、この烏は自分を助けに来てくれたのではないか――Aは何となくそんな風に思った。違っていたとしても、彼がこの烏に助けられたのは事実である。Aは感謝の気持ちを込めて烏に頭を下げ、次に烏の足元にある社殿の前で手を合わせ、境内から立ち去ったのであった。  A自身はその出来事から十年以上経ってから知ったのだが、川原の石には水難に遭って死んだ者の霊が取り憑いているという話があるのだという。また、日本において烏は古くから神の使いとされてきたとも。  盆の数日後と言う時期が関係しているのかは分からないが、あの時の石にも何らかの理由で彼岸へ行けなかった死者の魂が宿っており、たまたま川原へやって来たAに目を留めて、悪さを働く為に付いて来たのかもしれない。そして、近くにあった神社の祭神が逸早く死霊の企みに気付き、あの烏を遣わして災いを未然に防いでくれたのだ。彼は今ではその様に考えているのである。
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