冬の蝙蝠

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 ()てつく冬の夜空に星が輝いていた。  午前4時。仕事を終えて誰も居ない部屋に戻る。  鉄製の古い玄関扉を開けた途端、電話の音が聞こえた。  誰だよ、こんな時間に。  非常識すぎんだろ。  ここの電話番号を知る身内は居ない。  だから訃報(ふほう)じゃない。  しつこく鳴り響くベルの音。  仕方なく受話器を取って応対しようとしたら、若い女の声が鼓膜(こまく)に刺さった。 『(やなぎ)さんですか!?及川(おいかわ)さんが……及川さんが!』  同期の及川。電話の向こうで叫んでいるのは奴と同居する相棒の(たまき)だ。 「及川がどうしたよ。死んだか?」 『わかんないです!どーしたらいいですか!?』  環は元々、何を言いたいのかよく分からない娘だ。  慌ててるから余計に意味が分からない。 「まず落ち着け。深呼吸してみろ」 『私は大丈夫です!及川さんが大変です!』  理解した。  電話じゃ(らち)が明かない。 「わかった。今からそっち行くから。待ってろ」 『本当ですか!』 「ウソ言ってどーすんだよ」 『わかりました!待ってます!』  とは言ったが。この時間じゃ電車も無い。  大通りに出て流しのタクシーを拾う。  道は空いていた。  15分程で及川が住む集合住宅の前に着く。  タクシー代は後で及川に請求してやる。  エレベーターは無い。4階まで階段で上る。途中で息が切れた。  煙草、吸いすぎか。  廊下の一番奥。玄関扉の前に(うずくま)る環の姿が見えた。  俺を認識した環は、立ち上がって駆けて来る。  そのままの勢いで抱き着かれた。  柔けーな、オイ。  及川の野郎、いつもこんな幸せを味わってんのか。  (うらや)ましい。  俺の顔を見て気が緩んだのか、環は泣きじゃくってる。  本当に死んだんじゃねーのか及川。  薄着で外に居た環の身体は冷え切ってた。  俺は着ていたコートを脱いで環を包む。  環は驚いた様子で見上げて来た。  見た目は可愛いんだよコイツ。 「とりあえず部屋に入れろ。話はそれからだ」  環は(だま)って(うなず)いた。 ◆  相変わらず綺麗に整った室内。  几帳面な及川の性格が表れている。  及川は私室のベッドに横たわってた。  息はしてる。生きてた。  だけど苦しそうだ。  脈を確かめようと握った手は異様に熱い。  かなりの高熱だ。  風邪でもひいたのか。  とりあえず身体を冷やした方がいい。  氷を取りに台所へ行こうとする俺の服を環が掴む。 「……及川さんどうしたですか。大丈夫ですか」 「俺は医者じゃねーからわかんねーよ」 「お医者さん呼ぶです」 「こんな時間に来てくんねーだろ」 「じゃあ、救急車です」 「やめとけ」 「何でですか」 「俺たちみたいな裏の存在は、表の世界と関わらないのが賢明だ」  戸籍も無いような俺たちだ。  後で面倒なことになる。 「どーしたらいいですか!」 「とりあえず氷で頭とか冷やして。目を覚ましたら解熱剤を飲ませて。食欲があれば(かゆ)でも食わせる」 「それで及川さん生き返るですか」 「まだ死んでねーよ」 「怖い夢、見たです」  環が言うには。  内容は覚えてないが怖い夢を見て夜中に目が覚めた。  1人で寝るのが嫌で及川のベッドに潜り込んだら様子がおかしい。  呼び掛けても揺すっても起きない及川に焦って、俺に電話をしたらしい。  一番に頼りにしてくれたのは正直、嬉しかった。  だから、出来る限りのことをしようと思った。  眠そうな環。部屋に戻って寝るように言ったが、及川の傍に居ると言って聞かない。  及川大好きだからな、環。  案の定、ベッドに(もた)れて寝落ちした環に毛布を掛ける。  世話の焼ける娘だ。  及川の額に載せた手拭いを冷水に(ひた)して(しぼ)り、また戻す。  時折、顔や首筋の汗を拭う。  若い頃は大人びていた及川。  今は歳より若く見える。  コイツとは同期だ。  高卒と大卒だから、俺の方が4つも歳上。  なのに及川は背が高くて落ち着いた雰囲気だったせいか、最初は歳上かと思った。  素直で人懐っこい性格の及川は俺を慕ってくれた。  けど敬語で話し掛けられるのが居心地悪く、タメ口で話すように言ったら体育会系の及川は戸惑ってた。  及川が大失恋した時も俺が励ましたっけな。  あれから本気の恋愛はしてないらしく、未だに独り身だ。  俺も人のことは言えないが。  及川なら良い夫、良い父親になれたと思う。  環に対する態度を見て確信した。  今からでも遅くない。  良い相手が見つかればいいと思う。 ◆  ようやく東の空が白み始めた。  俺は居間の棚に置かれている常備薬の箱を開ける。  物色したら風邪薬があった。  使用期限はギリギリだが、まあ大丈夫だろ。  薬を手に及川の部屋に戻る。  額の手拭いを取り替えようとしたら手を掴まれた。  どうやら意識が戻ったらしい。  安堵(あんど)していたら及川は俺の腕を(ひね)り上げやがった。  悲鳴を上げたいくらい痛かったが、俺も殺し屋の(はし)くれ。  身体を捻ってすり抜ける。  及川の手は枕の下を探っていた。  ……この野郎。俺を撃ち殺す気か?  殺される訳には行かない。  病人には(こく)かと思ったが、俺は外したネクタイで及川の両手首を縛って馬乗りになった。  及川がぼんやりした目で俺を見上げて来る。  少しして、(かす)れた声で言った。 「……何をしている」 「見ての通り。看病だよ」 「……看病?これが?」 「仕方ねーだろ。お前が暴れたんだよ。俺だって野郎相手にこんなハードなプレイしたくねーよ」 「……そうか。すまない」 「ったく。世話の焼ける親子だな」  この騒ぎでも環は目を覚まさなかった。  ベッドの足元の方で爆睡してる。  察しのいい及川は俺が説明しなくても状況を把握した。 「迷惑をかけたな……申し訳ない」 「気にすんな。どーせ暇だし」 「もう大丈夫だ。早く帰って休め」 「帰れってか」  俺が手のひらを差し出すと及川は握手をする。  ……意外と天然か? 「ちげーよ。タクシー代。往復分よこせ」 「……あぁ。金ならそこの……机の引き出しに」  及川が指差した引き出しを遠慮なく開けたら、奴の黒い長財布が入っていた。  人の財布は触りたくないが仕方ない。 「……及川よぉ」 「……何だ」 「全然、足りねーんだけど」  財布の中には三千円しか入っていない。  大人の男の所持金か、これ。 「……入れ忘れていた。リビングのテレビ台の引き戸の中に……手提げ金庫が……」 「あー、もういい。お前が元気になるまで帰らねーから」  及川は心底驚いた顔をした。 「お前の世話できねーだろ環。で、環の世話できねーだろ、お前」 「……まあ、そうだな」 「俺は一応、家事も出来るし。暇だし」 「……すまない」  誰かに頼り慣れていない及川は死にそうな声で()びた。  何でも出来るからなコイツ。  頼らなくても生きられた。 「及川」 「……ん?」 「俺には遠慮すんなよ」 「……無理だ」  即答かよ。 「お前の事情は知らねーし知りたくもねぇけど。あんま突っ張って生きてると折れんぞ」 「……そうかもしれないな」 「だーかーらー。俺には頼っていいって言ってんだよ」 「柳……」 「ほら。俺のが4つもお兄さんだし?大人の余裕っての?」  得意気に言ったら及川が笑う。  いや、真面目に言ってんだけどな俺。 「まあとりあえず。何か食えるか?」 「……食欲が無い」 「待ってろ。ちょっと冷蔵庫見てくっから」  綺麗に片付いた台所。冷蔵庫の中も綺麗だ。 「すぐ食えそうなモン……」  俺はバニラのカップアイスとスプーンを持って及川の部屋に戻った。  アイスクリームなら食えるだろ。  カロリーも高いから良さそうな気がする。 「これでも食っとけ」 「……それは環のだ」 「ひとつくらイイいだろ。腐るほどあったぜ」 「しかし……」  そういやコイツ甘いモン苦手だったな。  俺は台所に戻って調味料の棚を探す。  目当てのものを見つけてアイスにたっぷりかけた。  赤く染まったバニラアイスを前にした及川は珍しく動揺している。 「何だ……これは」 「辣油(ラーゆ)。コレだけかけりゃ辛くなんだろ」 「そういうものなのか?」 「食ってみろよ」  意外と素直な及川は恐る恐るスプーンで(すく)うと、また恐る恐る口に運ぶ。  案の定、口を(おお)って俯いた。  やっぱマズイよなコレ。 「あーっ!」  及川の足元からデカイ声。  目を覚ました環が俺に向かってクッションを投げた。  慌てて避けて事なきを得たが、クッションは及川の顔に直撃した。 「っぶねぇな!何すんだよ!」 「それ私のアイスです!」 「知ってるよ!ひとつくらいイイだろ。ケチケチすんな」 「勝手に食べないでください!」 「及川に食わせてんだよ」 「……及川さん?及川さん生き返ったですか!?」  何やかんやでまた死にかけてる及川に、環は抱き着く。 「及川さん……良かったです……!」  及川はぐったりしながらも環の髪を撫でてた。  本当に娘みたいに思ってんだろうな。  勿体(もったい)ねーな。  何があったか知らねーけど。  及川には普通に生きて、幸せな暮らしをして欲しかった。  コイツは出来の悪い俺とは違う。 「……柳」 「何だよ」 「……頼みがある」  早速、頼られて喜んだのに。 「トイレに……行きたい」  いきなりソレかよ。  まあ大事な役目だけどよ。  それから3日間。  俺は及川の家で2人の世話をした。  文句を言いながらも楽しい時間だった。  あれから何年経ったか覚えてねーけど。 「39度」  自室のベッドで寝込む俺から体温計を奪い、及川が冷静に読み上げる。 「大人でこの体温はまずいな」 「大丈夫だって……体温計が壊れてんだよ」  起き上がろうとしたら抑えつけられた。 「大人しく寝ていろ」 「仕事があんだよ。寝てられっか」 「俺ひとりで十分だ」 「弟のクセに生意気だ」 「お前の弟になった覚えは無い」  環を失って。  及川は行方不明になった。  見つけて連れ戻した及川は以前と違っていた。  心の深さが無くなった、と言うか。  乾いてる、と言うか。  いつ消えてもおかしくない不安定な人間になった。 「……なぁ、及川」 「何だ」 「……何でもねーよ」  コイツをこの世に縛り付けるのは俺の役目じゃない。  そう思った。  早く。環の代わりにコイツの心を繋ぎ止める誰かが現れてくれたら。  願いが通じたのか、その年の春に及川は本気で愛せる人と出会った。  相手が女子高生ってのは想定外だったけどな。  毎日、生き生きとしてる奴が羨ましかった。  凍てつく冬の夜。  都会の空には数える程の星しか見えない。  広すぎる庭で煙草に火をつける。  白い吐息が闇に溶けた。 「……俺も恋すっか」  まだイケるだろ。俺だって。  若くて可愛くてナイスバディの彼女の1人や2人、その気になれば簡単に作れる。  見てろよ及川。  お前には負けねーから。  だからお前も幸せになれ。  誰にも邪魔させねぇから。  自室の電話が鳴る。  良い(しら)せか悪い報せか。  煙草を消して部屋に入る。  受話器の向こうから馴染みのある女性の声が聞こえた。 【 完 】
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加