冬の蝙蝠

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 ()てつく冬の夜空に星が輝いていた。  午前4時。仕事を終えて誰も居ない部屋に戻る。  鉄製の古い玄関扉を開けた途端、電話の音が聞こえた。  誰だよ、こんな時間に。  非常識すぎんだろ。  ここの電話番号を知る身内は居ない。  だから訃報(ふほう)じゃない。  しつこく鳴り響くベルの音。  仕方なく受話器を取って応対しようとしたら、若い女の声が鼓膜(こまく)に刺さった。 『(やなぎ)さんですか!?及川(おいかわ)さんが……及川さんが!』  同期の及川。電話の向こうで叫んでいるのは奴と同居する相棒の(たまき)だ。 「及川がどうしたよ。死んだか?」 『わかんないです!どーしたらいいですか!?』  環は元々、何を言いたいのかよく分からない娘だ。  慌ててるから余計に意味が分からない。 「まず落ち着け。深呼吸してみろ」 『私は大丈夫です!及川さんが大変です!』  理解した。  電話じゃ(らち)が明かない。 「わかった。今からそっち行くから。待ってろ」 『本当ですか!』 「ウソ言ってどーすんだよ」 『わかりました!待ってます!』  とは言ったが。この時間じゃ電車も無い。  大通りに出て流しのタクシーを拾う。  道は空いていた。  15分程で及川が住む集合住宅の前に着く。  タクシー代は後で及川に請求してやる。  エレベーターは無い。4階まで階段で上る。途中で息が切れた。  煙草、吸いすぎか。  廊下の一番奥。玄関扉の前に(うずくま)る環の姿が見えた。  俺を認識した環は、立ち上がって駆けて来る。  そのままの勢いで抱き着かれた。  柔けーな、オイ。  及川の野郎、いつもこんな幸せを味わってんのか。  (うらや)ましい。  俺の顔を見て気が緩んだのか、環は泣きじゃくってる。  本当に死んだんじゃねーのか及川。  薄着で外に居た環の身体は冷え切ってた。  俺は着ていたコートを脱いで環を包む。  環は驚いた様子で見上げて来た。  見た目は可愛いんだよコイツ。 「とりあえず部屋に入れろ。話はそれからだ」  環は(だま)って(うなず)いた。 ◆  相変わらず綺麗に整った室内。  几帳面な及川の性格が表れている。  及川は私室のベッドに横たわってた。  息はしてる。生きてた。  だけど苦しそうだ。  脈を確かめようと握った手は異様に熱い。  かなりの高熱だ。  風邪でもひいたのか。  とりあえず身体を冷やした方がいい。  氷を取りに台所へ行こうとする俺の服を環が掴む。 「……及川さんどうしたですか。大丈夫ですか」 「俺は医者じゃねーからわかんねーよ」 「お医者さん呼ぶです」 「こんな時間に来てくんねーだろ」 「じゃあ、救急車です」 「やめとけ」 「何でですか」 「俺たちみたいな裏の存在は、表の世界と関わらないのが賢明だ」  戸籍も無いような俺たちだ。  後で面倒なことになる。 「どーしたらいいですか!」 「とりあえず氷で頭とか冷やして。目を覚ましたら解熱剤を飲ませて。食欲があれば(かゆ)でも食わせる」 「それで及川さん生き返るですか」 「まだ死んでねーよ」 「怖い夢、見たです」  環が言うには。  内容は覚えてないが怖い夢を見て夜中に目が覚めた。  1人で寝るのが嫌で及川のベッドに潜り込んだら様子がおかしい。  呼び掛けても揺すっても起きない及川に焦って、俺に電話をしたらしい。  一番に頼りにしてくれたのは正直、嬉しかった。  だから、出来る限りのことをしようと思った。  眠そうな環。部屋に戻って寝るように言ったが、及川の傍に居ると言って聞かない。  及川大好きだからな、環。  案の定、ベッドに(もた)れて寝落ちした環に毛布を掛ける。  世話の焼ける娘だ。  及川の額に載せた手拭いを冷水に(ひた)して(しぼ)り、また戻す。  時折、顔や首筋の汗を拭う。  若い頃は大人びていた及川。  今は歳より若く見える。  コイツとは同期だ。  高卒と大卒だから、俺の方が4つも歳上。  なのに及川は背が高くて落ち着いた雰囲気だったせいか、最初は歳上かと思った。  素直で人懐っこい性格の及川は俺を慕ってくれた。  けど敬語で話し掛けられるのが居心地悪く、タメ口で話すように言ったら体育会系の及川は戸惑ってた。  及川が大失恋した時も俺が励ましたっけな。  あれから本気の恋愛はしてないらしく、未だに独り身だ。  俺も人のことは言えないが。  及川なら良い夫、良い父親になれたと思う。  環に対する態度を見て確信した。  今からでも遅くない。  良い相手が見つかればいいと思う。 ◆  ようやく東の空が白み始めた。  俺は居間の棚に置かれている常備薬の箱を開ける。  物色したら風邪薬があった。  使用期限はギリギリだが、まあ大丈夫だろ。  薬を手に及川の部屋に戻る。  額の手拭いを取り替えようとしたら手を掴まれた。  どうやら意識が戻ったらしい。  安堵(あんど)していたら及川は俺の腕を(ひね)り上げやがった。  悲鳴を上げたいくらい痛かったが、俺も殺し屋の(はし)くれ。  身体を捻ってすり抜ける。  及川の手は枕の下を探っていた。  ……この野郎。俺を撃ち殺す気か?  殺される訳には行かない。  病人には(こく)かと思ったが、俺は外したネクタイで及川の両手首を縛って馬乗りになった。  及川がぼんやりした目で俺を見上げて来る。  少しして、(かす)れた声で言った。 「……何をしている」 「見ての通り。看病だよ」 「……看病?これが?」 「仕方ねーだろ。お前が暴れたんだよ。俺だって野郎相手にこんなハードなプレイしたくねーよ」 「……そうか。すまない」 「ったく。世話の焼ける親子だな」  この騒ぎでも環は目を覚まさなかった。  ベッドの足元の方で爆睡してる。  察しのいい及川は俺が説明しなくても状況を把握した。 「迷惑をかけたな……申し訳ない」 「気にすんな。どーせ暇だし」 「もう大丈夫だ。早く帰って休め」 「帰れってか」  俺が手のひらを差し出すと及川は握手をする。  ……意外と天然か? 「ちげーよ。タクシー代。往復分よこせ」 「……あぁ。金ならそこの……机の引き出しに」  及川が指差した引き出しを遠慮なく開けたら、奴の黒い長財布が入っていた。  人の財布は触りたくないが仕方ない。 「……及川よぉ」 「……何だ」 「全然、足りねーんだけど」  財布の中には三千円しか入っていない。  大人の男の所持金か、これ。 「……入れ忘れていた。リビングのテレビ台の引き戸の中に……手提げ金庫が……」 「あー、もういい。お前が元気になるまで帰らねーから」  及川は心底驚いた顔をした。 「お前の世話できねーだろ環。で、環の世話できねーだろ、お前」 「……まあ、そうだな」 「俺は一応、家事も出来るし。暇だし」 「……すまない」  誰かに頼り慣れていない及川は死にそうな声で()びた。  何でも出来るからなコイツ。  頼らなくても生きられた。 「及川」 「……ん?」 「俺には遠慮すんなよ」 「……無理だ」  即答かよ。 「お前の事情は知らねーし知りたくもねぇけど。あんま突っ張って生きてると折れんぞ」 「……そうかもしれないな」 「だーかーらー。俺には頼っていいって言ってんだよ」 「柳……」 「ほら。俺のが4つもお兄さんだし?大人の余裕っての?」  得意気に言ったら及川が笑う。  いや、真面目に言ってんだけどな俺。 「まあとりあえず。何か食えるか?」 「……食欲が無い」 「待ってろ。ちょっと冷蔵庫見てくっから」  綺麗に片付いた台所。冷蔵庫の中も綺麗だ。 「すぐ食えそうなモン……」  俺はバニラのカップアイスとスプーンを持って及川の部屋に戻った。  アイスクリームなら食えるだろ。  カロリーも高いから良さそうな気がする。 「これでも食っとけ」 「……それは環のだ」 「ひとつくらイイいだろ。腐るほどあったぜ」 「しかし……」  そういやコイツ甘いモン苦手だったな。  俺は台所に戻って調味料の棚を探す。  目当てのものを見つけてアイスにたっぷりかけた。  赤く染まったバニラアイスを前にした及川は珍しく動揺している。 「何だ……これは」 「辣油(ラーゆ)。コレだけかけりゃ辛くなんだろ」 「そういうものなのか?」 「食ってみろよ」  意外と素直な及川は恐る恐るスプーンで(すく)うと、また恐る恐る口に運ぶ。  案の定、口を(おお)って俯いた。  やっぱマズイよなコレ。 「あーっ!」  及川の足元からデカイ声。  目を覚ました環が俺に向かってクッションを投げた。  慌てて避けて事なきを得たが、クッションは及川の顔に直撃した。 「っぶねぇな!何すんだよ!」 「それ私のアイスです!」 「知ってるよ!ひとつくらいイイだろ。ケチケチすんな」 「勝手に食べないでください!」 「及川に食わせてんだよ」 「……及川さん?及川さん生き返ったですか!?」  何やかんやでまた死にかけてる及川に、環は抱き着く。 「及川さん……良かったです……!」  及川はぐったりしながらも環の髪を撫でてた。  本当に娘みたいに思ってんだろうな。  勿体(もったい)ねーな。  何があったか知らねーけど。  及川には普通に生きて、幸せな暮らしをして欲しかった。  コイツは出来の悪い俺とは違う。 「……柳」 「何だよ」 「……頼みがある」  早速、頼られて喜んだのに。 「トイレに……行きたい」  いきなりソレかよ。  まあ大事な役目だけどよ。  それから3日間。  俺は及川の家で2人の世話をした。  文句を言いながらも楽しい時間だった。  あれから何年経ったか覚えてねーけど。 「39度」  自室のベッドで寝込む俺から体温計を奪い、及川が冷静に読み上げる。 「大人でこの体温はまずいな」 「大丈夫だって……体温計が壊れてんだよ」  起き上がろうとしたら抑えつけられた。 「大人しく寝ていろ」 「仕事があんだよ。寝てられっか」 「俺ひとりで十分だ」 「弟のクセに生意気だ」 「お前の弟になった覚えは無い」  環を失って。  及川は行方不明になった。  見つけて連れ戻した及川は以前と違っていた。  心の深さが無くなった、と言うか。  乾いてる、と言うか。  いつ消えてもおかしくない不安定な人間になった。 「……なぁ、及川」 「何だ」 「……何でもねーよ」  コイツをこの世に縛り付けるのは俺の役目じゃない。  そう思った。  早く。環の代わりにコイツの心を繋ぎ止める誰かが現れてくれたら。  願いが通じたのか、その年の春に及川は本気で愛せる人と出会った。  相手が女子高生ってのは想定外だったけどな。  毎日、生き生きとしてる奴が羨ましかった。  凍てつく冬の夜。  都会の空には数える程の星しか見えない。  広すぎる庭で煙草に火をつける。  白い吐息が闇に溶けた。 「……俺も恋すっか」  まだイケるだろ。俺だって。  若くて可愛くてナイスバディの彼女の1人や2人、その気になれば簡単に作れる。  見てろよ及川。  お前には負けねーから。  だからお前も幸せになれ。  誰にも邪魔させねぇから。  自室の電話が鳴る。  良い(しら)せか悪い報せか。  煙草を消して部屋に入る。  受話器の向こうから馴染みのある女性の声が聞こえた。 【 完 】
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