第42話

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第42話

 私が彼の背中を擦っていると、建物の方から小さなライトの輝きが近づいてくるのが見えた。私と純季がそちらへ目を向けると、その光の主は母だった。  気が付けば、辺りはすっかり暗くなっていた。ライトの正体は母のスマートフォンで、それが真っすぐにこちらへ向けられていたから、私はライトの向こうに朧気に見えるシルエットと服装で、辛うじて母だとわかった。純季と私は反射的に身体を離したけれど、多分、私が純季の背を擦っているところも見られていたに違いない。 「悪い、ありがとうな」  純季は慌てたように立ち上がると、母の方へ向かってお辞儀をし、逃げるように帰っていった。 「ちょっと…」  私が声を掛ける間もなく、純季の背中は団地に面した道路の方へ消えていった。純季を見送る私の背中から、母が心配そうに声を掛けてきた。 「大丈夫?あんまり長い事戻ってこなかったから」 「あ、うん、ごめん。大丈夫だよ」  不安げな表情で母は私の顔を覗き込み、抱きしめるように私の肩に手を置いた。私はその手に自分の手を軽く重ねた。 「戻ろう、もうご飯出来上がったから」  母に促されて私は部屋へ戻った。部屋へ戻ると、暖かな空気に乗って、コンソメの香りが鼻腔まで届いた。なんだか急に力が抜けて、ため息が出ていた。 「寒かったんじゃない?ほら、冷めないうちに食べよ」  そう言って、母は私にテーブルへ座るよう促した。 「ねぇ、一緒にいた子、誰?」  テーブルへつこうとした私に、母は唐突にそう尋ねてきた。悪戯っぽい笑みを浮かべる母に、私は質問の意図を察した。 「いや、ただの知り合いだから」  そう答えてはみたけれど、母は本気にしていないようで、一層楽し気な目をしながら。 「そっかそっか、知り合いか」  と、声を弾ませながら炊飯器の蓋を開け、ごはんをよそい始めた。 「ほんと、クラスの知り合いだから。友達でもないからね」 「そっか、友達じゃない知り合いか」  重ねて言った私の言葉を、母は都合よく頭の中で変換したようだった。そういうんじゃないと、もっと強く否定したかったけれど、余計に冷やかされそうな気がして諦めた。それよりも、楽しそうに茶碗にご飯を盛る母の顔が、いつかの少女のようなそれを思い出させたのが、なんだか嬉しかった。 ~~  舘岡先輩と澁澤新が学校を辞めたという情報は、あの事件から二日経った学校中に瞬く間に広がった。  舘岡先輩については、誰もが無理もない事だと納得しているようだったけれど、澁澤新まで学校を辞めた理由については、様々な憶測が流れた。  舘岡先輩と新が仲良くしていたことは良く知られていたから、飛び降りの件にショックを受けた新が、舘岡先輩と一緒に学校を辞めたのだという結論に落ち着きそうな気配はあったけれど、そんな推測しやすい結論に納得できない一部の生徒たちの間で、いくつかの仮説が好き勝手に唱えられたりしていた。  けれど所詮は根拠もない妄想の類いで、大多数の生徒は、そういう可能性もあるかもね、といった程度の話として受け止めているようだった。  SNS上で加害者扱いをされた四人については、状況はもう少し複雑なものになっていた。  尾崎先輩が、警察に自首したのだ。  自分が舘岡先輩を突き落としたのだと、尾崎先輩は警察で話をしたらしい。けれどそれは、澁澤新が警察に自ら出頭し、意識を取り戻した舘岡先輩の証言により事件の真相がしっかりと裏付けられた後だったため、妄言としか認識されなかったようだ。  ただ、尾崎先輩を含めた四人が舘岡先輩をいじめていた事実は、生徒たちの、特に三年生の中では周知の事実だった。  そのせいか、いじめの被害者の飛び降り自殺未遂、加えて四人を加害者として名指ししたSNS上のメッセージの存在は、彼らに対する不当で不名誉な噂を生み、それを拡散させる結果をもたらした。  尾崎先輩の行動がそれに一層拍車をかけたのは言うまでもない。  舘岡先輩や新の望み通りの結果になったのは間違いないし、少なくとも尾崎先輩はそれを受け入れる覚悟は出来ているようだ。他の三人はどうなのかわからないけれど。  私のクラスも、例外なく舘岡先輩と澁澤新に絡んだ話題の消費地になっていた。耳聡い者もそうでない者も、朝の挨拶の代わりにその話題を持ち出し、当事者でない気楽さに任せて好きなように自分達の憶測を披露しあっていた。  一時の娯楽に浸るクラスメイト達を、私はいつものように遠巻きに眺めていた。正確に言えば、眺めているのも下らなかったので、鞄に仕舞っていた本を取り出し、読み始めた。  一昨日の朝と同じように、今日も窓から差し込む陽光が、陽の差し込む方角に生えた木々にあたりながら、文庫本の小さな文字の羅列をなぞるように揺らめいていた。  いつもなら気にならないそんな光の揺らめきが、今日に限って妙に目についてしまった私は、一度本から目を離し、ふと、何の気なしに純季のいる方へ視線を向けた。  舘岡先輩と新についての無責任な話が飛び交うのを、純季はどんな思いで聞いているのだろうと、そんなことを考えてしまい、私の視線は自然と純季の方へ向いた。  けれど、純季はほんの少しその心のうちを心配する私の予想に反して、いつものとおり全く感情らしい感情が伺えない顔つきで、そこだけ時間が止まっているのかと思うほどに、きれいに制止したままじっと黒板の方を見ていた。  純季らしいと、その一言で片づけてしまえば、それまでなのかもしれないけれど、そう言い捨ててしまうには、その悟りきったような態度はもの悲し気に見えた。
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