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第37話
放課後の体育館は部活動生が内も外も騒がしく動き回っていて、こんな場所に呼び出しても目立つだろうにと、秀治は周りを見まわしながら思った。
指定された場所に辿り着くまでに、秀治は高校生活で身に付けた相手を威嚇する表情を作り、強引に自分を奮い立たせた。こんな儀式を誰かと出会う度に繰り返してきた自分の本質だけは、高校生活の中でとうとう変わることはなかったようだと、自嘲するように秀治は思った。
部活動生で慌ただしかったはずの体育館の周辺は、それに隣接する記念講堂に近づくにつれ嘘のように静かになっていった。ただ、卓球部の部員達の声が遠く聞こえるばかりだった。
記念講堂の裏、そう言ってこの高校の連中が連想する場所は、錆び付いたゴールポストが仰向けに倒されたまま放置されていて、周りには草が生えているだけの寂しげなところだった。建物の向かい側にはブロック塀があり、隣の大通りと学校とを隔てていた。苔むした灰色の壁と白く削れた体育館の外壁が、そのはざまに立つ人間を圧迫する。
秀治が着いた時、まだそこには彼一人しかいず、例の後輩とやらはまだ来ていなかった。向こうから来るように言っておいて、自分が遅刻してくるなんて随分見上げたものだなと、秀治は錆びれたゴールポストを無言で睨みつけながら思った。健のメッセージには単に放課後とだけ書いてあって、特に時間を指定されたわけではなかったのだけれど、そうやって相手への怒りや苛立ちを溜め込むことで、自分の心を武装させるのだ。
その時だった、どうも、と秀治の背後から氷のように冷え切った声音で、そんな言葉が聞こえた。不意に声を掛けられ、肩を震わせた秀治。振り返ると、秀治より少し上背のある細身の学生が立っていた。しっかりした骨格の恩恵を受けた広めの肩幅と、それとは対照的に細く伸びた手足が、まず秀治の眼を引いた。そして、血が通っていないのではないかと思えるほど白い肌は、美しさよりも不健康さを連想させた。
「加賀美純季です。多分、伊野瀬先輩からメッセージが行ってると思いますけど」
加賀美純季と名乗った生徒は、静かな口調でそう続けた。声は低く、小さかったけれど、空気を裂いて秀治の元まで届く鋭さを持っていた。
「おう」
純季と名乗ったその後輩の異様な雰囲気に圧されないよう、秀治は出来る限り凄みを効かせた声で返事をした。純季はそんな秀治を凍った目でしばらく見つめ、それから秀治の正面に回り込むように移動した。
「すみません、突然呼んだりして」
純季は言った。絶対にすまないとは思っていないだろう。秀治は返事をせずに純季を睨みつけた。けれど、純季はそんな秀治の睨みなど意に介さず、話を続けた。
「呼んだ理由はわかりますよね」
純季はさっきよりもさらに冷たい声で秀治に問うてきた。余計なことは言わず、簡潔に言いたいことだけを言う態度が一層秀治の神経を逆撫でした。なめられていると感じるだけでここまで怒りが湧いてくるものなのか。けれど、それはそれで都合が良かった。怒りが秀治の気持ちを強くしてくれる。
「予想はしてたけど、やっぱあの話なのか。お前のことは全然知らないけど、くだらないことで呼び出したんだから、覚悟してここに来てるんだよな?」
考え得る限り最大限凄んで、脅しつけるような声で秀治は言葉を投げつけた。ところが、純季の方は相変わらず何も堪えていないようだった。ただ、彼が秀治に向け続ける凍り付いた視線には、わずかに軽蔑と怒りの感情が加えられたような気がした。
「尾崎先輩が俺と同じことを考えながらここに立ってるってわかって、説明の手間が省けて良かったです」
刺すような視線を真っすぐに秀治に向けたまま、色彩のない声で純季は言った。それから、数十センチ開いていた秀治との距離をさらに詰めるように、その細い身体を前に突き出し、言葉を投げた。
「尾崎先輩、舘岡先輩のこと突き落としましたよね」
やっぱりその話かと、秀治は思った。けれど、予想はしていたはずなのに、純季のその一言は蜘蛛の糸のように秀治の心にまとわりつき、息苦しささえ感じるほどその胸を圧迫した。
「ばかじゃねぇの?」
吐き捨てるように秀治は純季にそう言い返した。その一言を吐き出すだけで激しく神経を消耗している自分がいた。憶測の域を出ないような言葉に過ぎない、そう心得ているはずなのに、秀治は純季の言った言葉に身体の表面が冷たく粟立つ感覚を覚えた。
秀治はそんな自分を悟られないよう、精一杯の力で心の襞を撫でまわすざらざらした怖れをごまかし、そして純季をにらみ返した。
「そんな根拠も無い、いいかげんなこと言うために、お前わざわざ俺をこんなところに呼び出したのか?頭大丈夫か?」
強い蔑みを言葉に込めたつもりだったが、言うほどに自分の心の内側にある恐れや焦りを糊塗するための方便を吐いているような気持ちが強くなり、顔が熱くなっていった。そんな秀治の感情を見透かすかのように、純季は言葉を継いだ。
「やったんですよ。尾崎先輩は大野先輩たちと一緒になって、舘岡先輩を屋上から突き落としたんです。なんなら、大野先輩とか浜村先輩とかは抜きにして、尾崎先輩だけがやったってことにしてもいいですよ」
純季はさっきよりも強い調子でそう言った。要領を得ずに眉間に皺を寄せる秀治を、純季は上から見下ろしていた。
「お前、ほんとに大丈夫・・・」
「舘岡先輩が屋上から落とされた日、尾崎先輩たちは四人で朝早くに屋上へ行った。浜村先輩なら、朝七時前後に野球部の部員が屋上の倉庫まで道具を取りに行くことを知っていたから、野球部の後輩が倉庫で道具を探している間を見計らって、舘岡先輩も含めた五人で屋上に忍び込んだ」
秀治の言葉を抑え込むように、純季は言った。
「浜村先輩は野球部の練習に参加せずに疑われることを嫌って、何もせずに出ていったのかもしれません。野球部の朝練は朝七時前後に開始して、一時間程度で切り上げているみたいなんで。だから直接舘岡先輩に暴力を振るったのは、尾崎先輩と大野先輩、井野瀬先輩は舘岡先輩が屋上から落とされたときには教室に居たって、自信をもって答えていたから、こっちも途中で帰ったのかもしれませんね。どうでした、バットで殴って、屋上から突き落として。楽しかったですか?」
どう考えてもやりすぎですよね?そう問うてきた純季の声には、さっきまでの軽蔑と冷徹さに加えて、怒りのトーンが混じっていた。そんな純季に気圧され、秀治は何も言い返すことが出来ずにいた。こいつは健にまで話を聞いていたようだ。
そんな秀治の様子を見て取った純季は、一層蔑みを込めた口調で言葉を継いだ。
「突き落とすまでやろうと、途中でやめて帰ろうと、罪は変わらない。でも、ただのいじめっ子と裏切り者、どっちの罪が重いのか、考えなくてもわかりますよね」
そこまで言われて、秀治は純季が自分をここに呼び出した理由を理解した。
「おまえ、なんで知って・・・」
「先輩がまともだったら、答えはわかりますよね」
秀治にすべてを言わせることなく、純季はそう言い捨てて、その場を去っていった。一人残された秀治は、しばらく何も考えられずその場に立ち尽くしていたが、遠く響いていた部活動生たちの声が段々と近くに聞こえるようになって、漸く我に返った。
秀治はその場から逃げるように立ち去ると、熱くなった頭を冷ますように二度、三度と振って、逃げるように学校を後にした。
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