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第1話
バカ!死ねよ!朝の教室に、穏やかでない言葉が飛び交う。私はコミュニケーションとしてそんな言葉を投げつけあう連中から一線を引きたくて、掌いっぱいに広げた文庫本の文字の羅列を、睨むように追った。
頭には一切入ってこないけれど、こうしていれば不用意に話しかけられることはない。
南向きの窓から、はるか空の上の雲の流れに合わせて、朝の弱い日差しが煙のようにゆらりゆらりと教室に流れていた。
私の本のページの上にも、それらが這うように射し込んできた。頭に残らない文字を追うより、そんな光の揺らめきを観察するほうが私には楽しく思えた。
その時だった、ほんの一瞬、ページの上で踊る光が暗い影に遮られ、揺らめきが消えた。本の上だけではない、瞬間的にではあったけれど、私の机の周りから淡く立ち上る黄色い明るさが失せ、不安な黒さが教室全体に被せられたのだ。
私が顔を上げた時には、全てもとのとおり、緩やかな日差しが戻っていた。でも私がそれを知覚する前に、下から悲鳴やら怒声やらの混じったざわめきが立ち上ってきた。
そして間を置かず、生徒たちが騒ぎの正体を見極めようと、我先にベランダへ向かった。私は本を閉じ、ベランダの方へ目をやった。
騒ぎの正体が気にはなったけれど、両隣の教室の生徒たちもこぞってベランダへ身をひねり出そうとしていたので、私は正体を確かめることを諦めた。自分も同じようにする気力はなかったのだ。
「誰か落ちたんじゃねぇの!」
そんな声が、ベランダの人溜りを越えて私の耳まで届いた。
「うそ・・・!ほんとだ、制服着てるじゃん」
「誰、三年?」「上の教室から落ちたの・・・?」
ベランダの騒ぎがだんだんと大きくなる。黒い頭の連なりがもこもこと前後に動いて、気味が悪かった。でもそんなことより、人が落ちたという穏やかでない言葉の方が、私は気になった。
少し経って、下のほうから低い怒鳴り声が聞こえてきた。何を言っているのか上手く聞き取れなかったけれど、声の主が私の苦手な日本史の男性教諭であることはすぐにわかった。
大方、野次馬と化した生徒たちに教室へ戻るよう言っているのだろう。生徒の何人かは言われたとおり教室へ戻ろうとしたが、指示が聞き取れずにベランダに出ようとした別の生徒とかち合って、余計に混乱していた。
「みんな教室に入れ!」
教室の対岸から、野太い、しかし決然とした声が飛んできた。出席簿を脇に抱えた担任が、廊下側の窓から熊のように太く頑強な身体を覗かせていた。
声を聞きつけ、ベランダにいた生徒の一部が教室に戻ったが、まだ何人かはベランダに残ったままだった。しかし担任が再び “戻れ! ”と一喝すると、彼らも渋々それに従って自分の机に戻っていった。
全員が席についたのを確認すると、担任は堂々とした体躯に不釣り合いな小さな目を、ベランダと生徒達との間で行き来させた。事態を生徒達にどう説明すべきか、言葉を探しあぐねているようだった。
でもすぐに諦めたように息を吸うと、私達の方へ真っ直ぐに視線を向けた。
「後の事は先生達で対処するので、みんなは余計な詮索をしないように。学校の外でも面白半分に喋ってまわる事は絶対にしないようにして欲しい。いいか」
先生の問いかけに、数人が頭を垂れた。残りの生徒達は困惑したように顔を見合わせたりしていたけれど、先生の言葉に抗議を示すものはいなかった。
先生の方も、生徒達に特にそれ以上何かを言う事は無く、いつも通りに朝礼を始めようと日直に声をかけていた。
生徒達の様子はそんな感じだったけれど、ただ一人、教室の最後尾真ん中の席であからさまに窓の外へ視線を向けている生徒がいた。
加賀美純季だった。彼は鋭い視線を窓から決して離しはしなかった。気のせいかもしれないけれど、私には彼の表情から微かに不安が滲んでいるように思えた。
勘違いならそれで構わない。ただいつもの純季とその時の彼の不安の面差しとが結び付けられない私は、しばらく彼から目を離すことが出来なかった。
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