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第2話
やはり生徒が一人飛び降りたらしい。昼休みには、もうその話は学校中の話題になっていた。
ただ先生たちが必死になって生徒たちを落ち着けようとした成果なのか、大変なことが起こった割には、学校はいつもどおりの午後を迎えていた。
いつもと違うのは、休み時間の喧騒の中に、普段とは趣きを異にする浮つきが見られることだった。
日常の皮膜を突き破られた期待と不安とが、意識せずにいればそのまま通り過ぎてしまいそうな微妙な空気感となって、教室を漂っていた。
飛び降りたのは三年生の舘岡雄樹という生徒らしい。その生徒のことを私はよく知らないが、大人しくて目立たないタイプの生徒だったそうだ。
噂では、同じ三年生の生徒たちからのいじめにあっていたという。その影響からか、学問の成績も芳しくなく、大学受験を控えて神経質になっていたとか。
生徒には敢えて厳しく勉強するよう迫ったりはしないのが、この学校の校風なのだけれど、その分生徒同士のプレッシャーの掛け合いはすさまじい。
この学校には、県内随一の進学校なのだから、名も知らぬ大学に進学するわけにはいかないという、正直なところ私も少なからず感じている妙なプレッシャーがあった。
普段は仲良くしていても、いざとなれば敵は身内にありの感覚が、黙っていても頭をもたげてくる。三年生にもなれば、足の引っ張り合いの中を生き残っていく覚悟が必要になるのだ。
というのは私の飛躍した想像かもしれないけれど、いずれにしてここの生徒たちが学業の強いストレスに曝されているのは間違いなかった。
舘岡先輩の飛び降りもそれが原因に違いないというのが、専ら私の周りで聞かれる事だった。
それならそれで、別に構わない。大変なことが起こったのは間違いないけれど、私はそこまで野次馬的な興味は持っていなかったから、後の話は聞き流していた。
「自殺未遂みたいだね、みんなそう言ってる」
ふいに聞こえた言葉と一緒に、甘く、瑞々しく香る空気が、ふわりと私を通り過ぎた。
「一緒に食べよ」
親友(と私は思っている)の杏が、前の席のイスを私の机の方へ向け、座った。杏は自分のお弁当を私の机の上に置くと、滑らかな指使いで、丁寧にお弁当の包みをほどいていった。
その中から小振りなとき色のお弁当箱が姿を見せた。かこりと音をさせて開かれた杏のお弁当の中身は、少なめのご飯に、中に少しだけ焦げの混じった卵焼きが二切れ。艶のかかった茶色のきんぴら牛蒡とアスパラのベーコン巻の間に、緑の間仕切りが窮屈そうに置かれていた。
美しく整えられた杏のお弁当を見ていると、学食で適当に買ってきた私のお昼ご飯がたまらなくみじめに思えて、私はすぐにお弁当から目を逸らした。
「屋上からだったみたいだよ、三年生の教室じゃなくて」
「そう・・・」
私は不器用にサンドイッチの袋を開きながら言った。でも杏は、私の素っ気ない返答に困惑したようで、ほんの少し身を引いて、どこか気まずそうに視線を下げた。
杏とは一年生の頃から同じクラスで、それなりに長い付き合いだから、私が噂話の類をあまり好まないことも良く知っている。
私は杏の披露した話を既に知っていたから、彼女の言葉に簡単な返事で応じたのだけれど、杏は不用意にこんな話題を振るべきではなかったと、反省しているのかもしれない。そう思うと、私は少しだけ申し訳ない気持ちになった。
「みんな噂してる、落ちた生徒がどんな人だったかとか、自殺未遂の原因とか・・・」
落ち着いた口調で、でも内心は少しだけおどおどしながら、私は言った。
「うん、みたいだね」
よかった、会話には乗ってくれている。多分そんなことを思いながら、杏はどこか安心した様子でこちらに視線を戻した。
多分この話題以外に、お昼ごはんの会話のとっかかりになるようなものが見つけられなかったのだろう。そういう所に気を使う杏の優しさは嫌いでは無いけれど、過剰な気遣いはほんの少し痛々しくもあった。だから彼女の安堵の笑みは、私にも救いになった。
杏は弁当箱の脇に置いてあった蓋に、アスパラのベーコン巻を箸でつまんで置いた。
「塩分控えめのベーコンを使ってみたの、でもその分、アスパラの方に味付けしてるんだ。ちょっと味見して」
そう言って、それを箸と一緒にずいと私の前に差し出した。私は水を吸って膨れたアスパラのベーコン巻を、渡された箸で挟んで口に運んだ。奥歯で一噛みした途端、しょっぱい汁が舌の上を這いまわって、喉の奥まで伝わった。
「どう?ちょっと味が濃いかもって思うんだけど・・・」
「うん、濃いね・・・」
私はパックのお茶を左手に持ち、言った。
「ベーコンは確かに薄味になってるみたいけど、アスパラは、なんかしょっぱい。あと水分吸ってぐちゃぐちゃになってるし、そのわりに繊維の固い所が残ってるから、変な食感になってるよ」
私は遠慮なくそういったけれど、杏は別段落ち込むでもなく、神妙な面持ちで私の言葉に耳を傾けていた。料理の感想に関しては、忌憚ない意見を言う事が許されるようだ。
「素麺のつゆを少し薄めて、それでアスパラを煮てみたんだけど。そっかぁ、味が濃くてぐちゃぐちゃになるんだね」
唇を真っ直ぐに結んで、杏は難しそうな顔を見せた。
「自分で作ってみたのは、これだけ?」
「あ、うん。残りのおかずはおばあちゃんが作ってくれたの、私は詰めただけ」
ばつが悪そうに杏は笑った。杏は料理が苦手らしく、ほとんどのおかずは彼女のお祖母さんが作ったものだ。ただ二年生に進級してから、彼女は料理にチャレンジし始めたらしい。その理由は知らない。
ふとしたことで傷つきやすいナイーブな杏が、料理の批評は真摯に受け止めようとしているのだから、本気で上手くなろうと言う気持ちは強いのだろう。だから応援はしている。
目の前でくたくたになっているアスパラを見る限り、上手くなるのはもう少し先になりそうだけれど。
私はウーロン茶のパックを手にし、ストローをしっかり差し込むと、一口飲んだ。その時、私達の座る机の方に女子生徒がやって来た。
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