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第29話
「おまたせ、遅くなってごめんね」
みのりが、秀治たちの注文したドリンクをトレイに乗せ、こちらへやってきた。皆、礼を言いながらそれを受け取ると、すぐにまた大学生たちの方に身体を向けた。話題は当然、進路に関すること。喋っているのはほとんど梨沙や俊だったけれど、それ以外の連中も熱心に優紀や律人、そして絵梨沙のレスポンスに意識を向けていた。
けれどそんな堅苦しい話題に皆が飽きてきたのか、誰ともなく大学生活そのものの話題を持ち出し、ゆっくりとそちらの方へ話の軸が移っていった。
絵梨沙たちのドリンクも揃って、会話の盛り上がりにエネルギーが注がれた。酒の香りが緩やかに店の空気を満たしていくのにあわせて、俊たちも絵梨沙たちも互いの距離を縮めていった。秀治だけが、相変わらず少し離れたところからそのさまを観察していたけれど、ふと隣を見ると、沙織が少し疲れた様子でグラスを手に一人佇んでいた。
多少酒が回っているのか、どこかぼんやりと、そして所在なげに宙を見る沙織に、気づけば秀治は声を掛けていた。
「大丈夫、居辛い?」
「あ、えっと、少し。秀治くんも居辛そう」
困った顔で笑う沙織の長い髪が、一筋だけはぐれて頬の上に流れていた。
「うん、居辛い。めちゃくちゃ居辛い」
素直にそう言って、秀治は笑った。それなりに大きな声で言ったけれど、俊たちはさらに大きな声で喋っていたから、気づいてはいないようだった。沙織も、つられて笑った。
「よかった、一人だけこんな気持ちだったら、寂しいし申し訳ないなって思ってたから。今日は秀治君に色々助けられてる」
沙織はグラスをテーブルの上に置き、秀治に正対するように身体の位置を変えた。酒の程よく巡っていた秀治の身体は、その仕草だけで全身の血の流れを加速させ、息が詰まりそうなほど心臓が早鐘を打った。秀治はそれを悟られないように、とりあえず何か話をしようと口を開いた。話のネタなどないし、何を話しているのかもよくわからなかったけれど、他愛のない退屈な話を思いつくままに話した。
もっと面白い話をしないといけない、退屈されるのは怖い。そんな不安を頭の片隅で感じながら、軌道修正する余裕もなく秀治は喋り続けた。沙織はそれを、ただ黙って微笑んだまま聞き続けた。
他の連中は、みんな大学生との会話に夢中で、秀治達の方に関心を向けるものはいなかった。誰にも邪魔をされずに二人で話が出来るのはいい。けれど、誰も間に入ってこないのなら、秀治は一人で工夫して、沙織を楽しませなければならない。女子生徒どころか、他人とロクに会話もしたことがない秀治にとって、今のこの状況は良いことなのか、それとも…。考える間もなく、とにかく会話を続けた。
そうしているうちに、いつの間にか時計が八時を回っていた。
「そろそろ帰らないと、まずいんじゃない?」
女子生徒の一人が、控えめに梨沙の制服の裾を引いた。
「まだ良くない?」
不満げな顔でそう言いつつ、梨沙は俊の方に近づいて、時計が八時を回ったことを告げた。大学生の相手ばかりしていた俊に、梨沙は少し不満そうにしていたけれど、俊はそんなことには気付いていない。
克己にも声を掛け、一緒に時計を確認した俊は、名残り惜しそうに絵理沙や優紀の方へ目をやりながら、あきらめたように言った。
「遅くなりすぎてもまずいよな」
俊は立ち上がって、まずはみのりの方へ、それから絵理沙と優紀の方へ声を掛け、最後に秀治達に向かって言った。
「もう遅い時間なんで、今日はこの辺で」
料理も飲み物もサービスだから、と、高らかに言った俊の頭をみのりが叩いて、勝手に決めるな、と言った。
「あ、でもサービスなのは本当だから、安心して、こいつを働かせて埋め合わせるから」
みのりはそう言って、俊の頭を掴んで揺すった。
「は、聞いてねぇよ」
そう言ってみのりの手を払った俊の言葉をみのりは聞き流した。
「ありがとうございました」
梨沙がいの一番にそう言って、すかさず俊の隣に立ち、その腕に自分の腕を絡ませた。他の生徒たちも立ち上がって、みのりや大学生達に礼を言い、店の外へ出ていった。
秀治も周りにならって同じように礼を言ってまわったけれど、頭の中はぼんやりとして、何かが抜き取られたような虚脱感に襲われていた。それが酒のせいなのか、沙織に向かって精一杯に要領の得ない話をしたせいなのか、それを考える余裕もなかった。
俊達の後を追って店の外に出て、通りの灯りと自動車の走行音に曝されて、秀治の頭は漸くクリアになってきた。そうなってくると今度は、自分が店の中でやっていたことがはっきり思い出されて、酷い自己嫌悪の念に駆られた。
秀治は健と同じ位置で、例のごとくみんなの後ろからとぼとぼと集団について歩いていた。そのすぐ前には沙織がいて、どこか浮ついた様子の他の女子生徒たちと談笑しながら、先頭を行く俊や克己、梨沙の後ろを歩いていた。
雰囲気が苦手だなんて言っていたけれど、本当はバーの中にいた時だって、沙織はこんな風に友達や、大学生と楽しくしゃべっていたかったんじゃないか。そんな考えが、脇山口の交差点に向かってあるく秀治の頭の中を始終巡り続けていた。自分でも内容をつぶさに思い出せないような、それくらい中身のない話を延々と沙織に向かってしていたことが、秀治は堪らなく申し訳なかった。
震えだしてしまいそうな感情の行き場を見いだせずに、押し黙ったまま歩く秀治。周りの連中はそんなことになど気づかずに、思い思いにしゃべりながら、いつしか脇山口の交差点まで来ていた。
「俺こっち、そんじゃ」
酒が回っているせいか、克己がいつも以上に声を張り上げてそう言った。
「俺らもそっちだけど、なぁ?」
そう言って、俊は梨沙たちの方を向いた。梨沙は俊の腕に自分の腕を絡ませたままうんうんと頷いていた。女子生徒二人も顔を見合わせた後、私たちもそっち、と言った。健は何も言わず、いつの間にか克己よりも先に行っていた。
「みんな一緒じゃん、良かった」
俊は梨沙の方へ身体を擦り付けるように寄せながら、言った。
「ごめん、私こっち側だから、さよなら」
沙織が、少し申し訳なさそうにしながら皆にさよならを言った。その言葉に、心の内側を行ったり来たりしていた秀治の意識が外側へ戻った。
「え、そうなんだ。ひとりで大丈夫?」
女子生徒の一人が心配そうな視線を沙織のほうへ向けた。
「明るいし、歩いて帰れる距離だから」
それじゃあねと背を向ける沙織の後ろ姿を追おうとして、秀治は自分の足に根が生えたようにその場から動けなくなってしまった。一歩前に進んで、俺もそっちだから、送っていく、とひとこと言えばいいだけなのに。
「秀治もそっちじゃん」
俊が周りに聞こえる声で言った。男子学生にしては高めで良く通る俊の声は、克己や梨沙たちの視線を秀治に集めるには十分だった。もちろん、沙織の耳にも届いていたようで、帰りかけていた足を止めてどこか困惑したようにこちらを見ている。
「おぅ、そうだけど」
一言、それだけどうにか言った。
「送っていってあげたら?一人じゃあぶないよ?」
煽り立てるような梨沙の言葉が、脇山口の交差点の喧騒を抑え込んで響いた。たまたま通りかかった学生の一団にその声が届いたらしく、数人がきょろきょろと周りを見まわしていた。
なんとなく、後戻り出来ないような空気になった。そうだなとだけ答えて、破裂しそうな心臓を落ち着かせるために、ばれない程度に深く息を吸いながら沙織の方へ向かった。俊達の方は振り返らないようにした。どんな目をして自分の方を見ているのだろうか、考えただけで身体中が燃えそうなほど熱かった。
「ごめんね」
沙織が小声で自分にそう言っているのが、小さな唇の動きでわかった。沙織が謝るような話でも無いのにと、秀治はなんだかとても申し訳なく思った。
「じゃ、これでほんとに解散」
俊の言葉に合わせて、高校生の塊は二つに分かれてそれぞれの方向に向かって歩き出した。といっても、脇山口から南の方へ歩いて行くのは秀治と沙織の二人だけなのだけれど。
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