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第30話
「家、飯倉の方なんだね。あ、さっき言ってたか」
沙織が、気まずさを少しでも紛らわせたかったのかもしれないけれど、不意にそんなことを言った。
「え、さっき?」
秀治は驚いて沙織に尋ね返した。沙織に自分の家の場所なんて教えたろうか。それもさっき?
「うん、さっきバーで色々話してくれてたけど、そこで言ってた」
何一つ、記憶になかった。
「俺、そんな話してたんだ・・・」
「もしかして覚えてない?」
秀治の顔を覗き込むように視線を送る沙織。静かにうなずいた秀治の様子が面白かったのか、沙織は堪えきれないといった様子で、吹き出した。
「ごめん、ちょっと、目線がくるくるしてたから」
口元を手で隠しながら、沙織は言った。その仕草は可愛らしく、笑われたことよりも愛おしさの方が秀治の中で勝った。
「いや、大丈夫。さっきバーで話してた内容のことだよね、俺、本当に覚えて無いんだ。なんか、頭真っ白で話してたから」
一体自分は何をしゃべってしまったのだろう。気にはなりつつ、少し意地を張って秀治は冷静にそう返した。
「そうなんだ。じゃ、お姉さんが働けなくなって家にいることとか、あと・・・」
沙織は口籠って、話しづらそうに何度か秀治の方へ視線を向けてきた。
「いや、大丈夫、逆になんて言ってたのか気になっちゃうから」
そう言って、秀治は沙織に続けるように促した。
「そっか、うん、えっとね、秀治君、生活保護受けながらお姉さんと二人暮らししてるって」
そこまで喋っていたのか、いくら話題に事欠いていたからって、と、秀治は頭を抱えた。
「なんか、本当にごめん。いきなりわけのわからない重たい事言われて、困ったよね?」
秀治は顔の前で両手を合わせて、沙織にそう言ってわびた。
「全然、ちょっとびっくりしたけど、でも秀治君て、結構心を開いてくれる人なんだなって」
沙織は穏やかな声で言った。呆れるでも、秀治を遠ざけるでもない沙織の言葉は秀治を救った。
「ごめん、大変なんだねってことくらいしか思いつく言葉が無くて。私には秀治君の大変さを想像することしか出来ないから」
申し訳なさそうに言う沙織に、秀治は慌てて言った。
「誰だってそうだよ。だからそんな申し訳なさそうにしなくても大丈夫」
なんにも悪い事なんて無いよ、そう言いながら慌てふためく秀治の姿を、沙織は大丈夫、大丈夫と宥めた。ようやく落ち着いた秀治は、道路の対岸からこちらを圧迫するように煌々と降り注ぐコンビニの灯りを眩しく感じながら、話題を変えようとした。
「ずっと歩いてるけど、バスに乗らなくて大丈夫?歩いて帰れるところ?」
思いがけず、沙織の住んでいる場所を聞き出そうとしたことに気が付いた時には、もう言葉はすべて口から出ていた。
「うん、祖原だから、この横断歩道渡って、その丘の上の方」
沙織は、コンビニの前に敷かれた横断歩道の方へ目をやってから、今度はその奥に続く小さな丘への道を指さした。鬱蒼とした木々が道に覆いかぶさるように茂り、その隙間から街灯の光が漏れ出ていた。それでも、一人で歩いて帰るには危なくないかと心配になった秀治は、家の近くまで送っていくよと言った。そしてまた全て言い終えてから、意図せずに家の場所まで聞き出そうとしていることに気が付いた。
身体が熱くなる秀治。けれど、沙織はそのことに気が付いていないのか、それとも気が付いていたからこそなのか
「すぐ近くだし、明るいから大丈夫だよ、ありがとう」
と言った。下心のあるやつだと思われているに違いないと、秀治はいたたまれなくなった。けれど、信号が替わるのを待ちながら沙織は不意に言った。
「また来週も、一緒に本の話とかできたら楽しいね」
え、と秀治が聞き返す前に信号が替わり、沙織はそれじゃ、と言って横断歩道を渡っていった。
秀治はその場で立ち尽くしたまま、沙織が去り際に言った言葉が、自分の聞き間違いだったのではないかと怖くなり、頭の中で記憶を呼び起こした。
まるで鎮守の森のように家々を飲み込むほど肥大化した森の中へ、沙織の姿が消えていくのをただじっと見つめながら、秀治は期待する自分とそれを無駄だと嘲笑する自分の両方の感情を感じつつ、彼女が無事に家まで辿り着くことを願っていた。
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