第32話

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第32話

「ちょっと面白い事するから、来いよ」  俊がそんなことを言ってきた。詳しい事は説明せず、いつものように無意味に明るい声で。  けれど、俊の幼子のように大きく無邪気な目が、いつもより気味悪く光っているのが気にかかった。ただ、そのことを気にする間もなく秀治は俊に手を引かれて、休み時間に入ったばかりの教室をでた。 「面白い事って、なんだよ」  俊に手を引かれるままに歩いていた秀治は、道すがら面倒臭そうに尋ねた。 「来ればわかるって」  そう言った俊は、何故か笑いを堪えきれないといった様子だった。どこか高揚感すら感じる足取りの俊に恐ろしさを感じた秀治はしかし、何も言わず付いて行った。  俊は秀治を連れて階段を降り、一階の廊下を人気のない方へ進んでいくと、そのまま生徒たちが多くいる教室棟から少し離れた、実技系科目の教室が集まる別棟の方へ入っていった。  こんなところまで、何のために。そんなことを考えながら秀治が辺りを見回していると、俊が不意に足を止めた。俊が秀治を連れてきたのは、技術系の授業で使う木工室の隣にあるトイレだった。 「なにここ」 「トイレ」  いや、わかるわ。秀治は苦笑交じりに言った。 「なんか面白い事があるって言われて来たんだけどな」 「大丈夫だって、すげぇ面白いのが見られるから、ここ入れよ」  俊は秀治の腕を掴んでいた方の手をぐいと引き、もう片方の手でトイレの扉を開けた。促されるままに秀治がトイレの中へ入ると、そこにはすでに克己と健の姿があった。 「お、来た。遅ぇじゃん」  そう言った克己の手には、なぜかトイレの床を掃除するためのデッキブラシが握られていた。向かい合いように立っていた健は、スマートフォンを横に倒し、その画面部分を自分に向けたまま、大事そうに両手で持っていた。スマートフォンに搭載されたカメラと健の冷血さを漂わせた視線が、揃って下の方へ向けられていた。  克己がにやついた目をこちらへ向け、手にしていたデッキブラシを二度、三度と床をつつくように動かした。すると、秀治の視界の底の方、克己が床をつついた辺りで、何かが蠢いた。  秀治が床の方へ視線を落とすと、そこには制服を着た男子生徒が一人、何かから身を守るように床にうずくまっていた。子犬のような小柄な体格で、洗濯が行き届いていないのか、その生徒の着る制服はシャツもパンツもどこか薄汚れていた。  秀治は何が起こっているのか理解できず、しばし呆然と目の前の光景を眺めていたが、俊がそんな秀治の背中を勢いよく叩き、行けよ、と言い、克己たちのそばまで行くよう促した。 「面白いものって、これ?なんだよこれ」  いまだに十分状況が把握できない秀治は、うずくまる男子生徒の顔が見えるところまで近づき、言葉を失った。そこにうずくまっていたのは、雄樹だった。 「これからさ、こいつをそれで殴ったり、水ぶっかけたりして、動画に撮んの」  俊はそう言って、健の方を指さした。健は相変わらず床に視線を落としたまま、手元のスマートフォンを何やらいじっていた。 「顔入んないようにしろよ、あと制服も。身バレしないようにしないと」 「じゃ、こいつのも脱がしとけよ」  俊と克己がそんな会話を交わしながら、雄樹の制服のシャツを剥ぎ取ろうとしていた。その時、秀治は二人にされるがままになっていた雄樹と目が合った。  反射的に目を逸らした秀治は、それでも恐る恐るもう一度雄樹の方へ視線を戻した。雄樹は、何かをあきらめたように視線を床に落としたまま、すっかりシャツを脱がされ、上半身は下着一枚になっていた。  克己はそんな雄樹に蔑みの笑みを向けながら、掃除用具入れの扉を開き、何かを探すように手を伸ばした。彼が取り出したのは、ホースだった。克己はホースの先をしっかり握り、もう一方の先端を水道の蛇口に取り付けた。 「そんじゃ、出すから」  そう言って、克己は躊躇いもなく蛇口を回した。緑のホースは静かに、脈を打つように蠢きながら、やがてその先端から勢いよく水を噴射した。 「うわ!」 「おい、勢い強すぎ」  噴水のように吹き出す水に、俊も克己もおかしそうに笑った。健も水が掛ったのか、不機嫌そうに身体を引いていた。  克己はホースを雄樹の方へ向けた。雄樹は鞭が打ち付けられるように降りかかる水から身を守るため、カメが甲羅に四肢を引っ込める姿で身体を丸めた。克己が雄樹の脇腹を蹴ると、雄樹の小さな身体は仰向けになった。その勢いで下着がめくれ上がり、肋骨の浮いた腹が露わになった。克己はそこ目掛けてホースの水をぶちまけ、俊がその様子を見ながら、下品な声を上げて笑っていた。健は無言のまま、冷たい目で撮影を続けていた。 「ほら、これ」  不意に、俊がデッキブラシを秀治の前に差し出した。 「なんだよ」  デッキブラシを手に取った秀治は、俊の意図を理解できずにデッキブラシを握ったまま視線をそれと俊の間で行き来させた。 「それでさ、この亀みたいなのひっくり返したりしながら、おもしろい感じにしてくんない?大事なとこに水かけやすくしたりとか」  下卑た笑いの隙間から漏れる俊の言葉に、デッキブラシを握る秀治の手に力が入る。秀治は、相変わらず背中を向けて床にうずくまる雄樹の方へ視線を落とした。  ふと、俊は秀治と雄樹の関係について知っているのだろうかと、秀治はそんなことを考えた。知ったうえでのことなら、自分のことを試しているのだろうか。それとも単なる嫌がらせなのか、単純にこういう残酷なことをして楽しんでいるのか。  目まぐるしく、秀治の頭の中を様々な思考が駆け巡った。何故か雄樹との思い出は欠片も顔を出さず、代わりに沙織の姿が浮かんだ。ここで雄樹のことを庇って、俊達にこんなことやめるように言ったらどうするだろう。  俊や克己との関係は破綻するだろうか。正直、秀治にとってはもうとっくに上辺だけの関係になっているのだけれど、それさえも取り払ってしまえば、もう俊達とは完全に切れてしまうにちがいない。そうなったら、多分秀治はもとのように、クラスの隅のほうで誰にも顧みられることのない存在に成り下がってしまう。なにかの標的にされるようなことは無くなるのかも知れないけれど、その代りに、ただの近寄りがたい、腫物のような扱いを受けることになるだろう。  そんな秀治を、沙織はどう思うだろう。クラスで孤立し、ただ凶暴な目付きをしただけの臆病な人間を、隣に連れて歩く気持ちはどんなものだろう。おかしな考えだけれど、その時はただその思考だけが秀治の心を満たし、そして乱した。 「おい、もういいって、ちょっと落ち着け」  そんな声と一緒に、細い腕が秀治の骨ばった二の腕の辺りに絡みついてきた。 「やり過ぎ、お前こいつのこと嫌い?」  その声に、はたと秀治が我に返った時、秀治の腕とデッキブラシを抑えていた俊が、薄っぺらい笑みを浮かべながらも、どこか秀治のことを怖れるような眼でこちらを見ていた。  秀治は俊の放った言葉が理解できないまま、デッキブラシから手を離した。デッキブラシは秀治の手から俊へと渡り、空になった秀治の手の先に、横向きに倒れた雄樹の姿があった。  さっきまで、背中をこちらに向けながら、丸くなって必死に抵抗の意思を示していた雄樹が、今は何かすべてをあきらめたような眼で宙を見ている。伸ばし放題の彼の髪の毛は、ずぶ濡れになってその蒼白い肌に貼りついていた。  見れば、頬の辺りに真新しい傷がある。固いもの押し付けて、擦ったようなかすり傷。秀治はそこまで思考を巡らして、すぐにその先を考えることから逃げた。 「なぁ、結構やらかしちゃったんじゃね。動画使える?」  克己がいつものように軽い調子でそう言ったけれど、その声にはほんの少し怖れの感情が混じっているように思えた。 「帰ってから編集してみないとわからない」  健が言った。相変わらず感情を切り離したような冷たい口調だった。 「こいつ、放っとく?ばらしたりとかするんじゃ・・・」  克己が俊に向かって言った。 「そこ心配してたら、最初からこんなことやらねぇよ。こいつだけは大丈夫、もうそんな気も起きないくらい絶望してるから」  克己の怖れを含んだ視線を嗤うように、俊はそう言った。それから、軽蔑の視線をまずは雄樹に、そして秀治にも向けた。秀治は、それで全て理解した。 「身バレしそうなもんが映って無いってわかったら、流しちゃえばいいって。すげぇのが撮れたのは間違いないんだし」  俊はそう言い残し、一番にトイレを出ていった。そのあとを慌てた克己が続いて出ていき、そして健も続いた。  残された秀治は、もう一度、恐る恐るトイレの床に倒れ込んだままの雄樹へ視線を向けた。雄樹は秀治の方へ視線を向けることはなく、ただずっと、死んだ目で宙を見ているばかりだった。いたたまれなくなった秀治は、何かを振り払うように雄樹から目を逸らすと、トイレを後にした。  雄樹とは、そこで完全に切れた。あんなことがあってから、雄樹は学校に来たり来なかったりの状況にあるという話を耳にしたりもしたけれど、少なくとも学校生活の中で、秀治と雄樹が接点を持つことは無くなった。  自分の過去を切った秀治は、心の奥に蟠っていたものが取り去られた解放感に注意を向けることで、それよりももっと強い後悔に蓋をして、記憶ごと深く沈めてしまうことにした。後悔の対象など、初めから存在しなかったことにして、今と、これからに目を向けようと決めた。
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