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第35話
私は屋上から階段を降りて三階に戻った。純季は何も言わず私が階段を降りてくるのを待っていたけれど、どこかそわそわした様子で、待ち切れないとでも言いたげな目をこちらへ向けてきた。そんな視線を意識せずにはいられなかった私は、駆け足で階段を下り彼の隣に立った。
「ねぇ、ちょっと、言いたいこととか聞きたいことが幾つかあるんだけど」
不満げにそう尋ねてみたけれど、純季は全く意に介さない様子で
「後で説明するから。ちょっと今は急ぎたいんだ」
と言った。
「急ぎたい?」
どうして?と私が問い返す前に、純季は昼休みがそろそろ終わるから、とだけ答え、私に背を向けて歩き始めた。彼は真っすぐに三年生の教室が連なる廊下のほうへ向かって、大股で歩いた。
その姿は急いでいるようにも、気持ちが高ぶっているようにも見えた。行動から感情が漏れ出ているなんて、純季らしくもないな。彼の後ろを置いて行かれないように付いていきながら、私は少しだけ肩をいからせて歩く痩身の男子生徒の心の中を推し量ろうとした。
舘岡先輩って、純季にとってそんなに大切な先輩だったのだろうか。そんなことを思っていると、純季は不意に足を止め、ある教室の前で立ち止まった。
純季に追いつこうと少し小走りになっていた私は、止まり切れずに彼の細い背中にぶつかった。ただ、両側の肩甲骨の間に私の顔がうずもれるようにぶつかっても、彼は何も言わずちらりと私の方を見ただけだった。
純季の冷めた反応と、そんな私たちの様子を周りの三年生たちがしっかり見ていて、それでいて特に何事もなかったかのように振舞っているのが、かえって私の気恥ずかしさを増幅させた。私は、今度はさっきよりもっとわかりやすく不満な表情を作り、純季の方へそれを見せた。
私と目が合った、というより私の方から目を合わせたのだけれど、その時の純季はさすがに気まずそうに口を結んで目を逸らした。でもすぐに何かを思い直したような顔になって、私へもう一度顔を向けた。
「ここ、舘岡先輩の教室。あと、伊野瀬先輩もここだから」
そう、純季は言った。舘岡先輩って三年四組だったのか、でも伊野瀬先輩って?聞きなれない名前が出てきたことに、私は首を傾げて頭の中の記憶を辿った。そして、それがSNSで舘岡先輩を突き落としたと名指しされた四人のうちの一人だったことを思い出した時には、純季はもう教室の中へ入ろうとしていた。相変わらず、今日の純季は自分のリズムでしか行動してくれないようだ。
三年生の教室は、まだ昼休みの時間帯とあって、そこかしこで生徒たちの話し声や、時に叫び声にも聞こえてしまうような大きな声が響き、必要以上に賑やかだった。
この中に分け入っていくだけでも私には中々ハードルが高かった。けれど、純季は私のように周りの喧騒や、もしかしたら私たちに向けられているかもしれない周囲の視線など全く気にする様子もなく、まっすぐに教室の真ん中へ歩いて行った。彼の向かう先には、周囲の喧しさから一線を引くように机の上で読書に励む一人の男子生徒がいた。
「こんにちは、伊野瀬先輩」
生徒の机のすぐ脇に立った純季は、神経質そうに本のページをめくる男子生徒をそう呼んだ。見ず知らずの人間から不意に自分の名を呼ばれたその男子生徒は、読んでいた本に栞を挟みつつ、怪訝そうな顔で純季の方を見返した。
「二年生の加賀美純季と言います。読書中のところすみません」
冷めた表情のまま、相手の機先を制するように自己紹介をした純季にどこか気圧されつつ、伊野瀬先輩は
「誰かな?悪いけど君のことは知らない」
と答えた。愛想のなさは純季と良い勝負かもしれない。
「みんなそうだと思います。伊野瀬先輩は知らなくても、伊野瀬先輩のことは知ってるって生徒、多くなってますから」
相変わらず無表情で、けれどどこか高圧的に純季は言った。際どい皮肉の言葉を投げかけられ、伊野瀬先輩は気分を害したのか、負けじと嫌味な口調で言い返してきた。
「そんなこと言うために、二年生がわざわざここに来たんだ。暇なのかな、お疲れ様」
精一杯言い返したつもりだったのかもしれないけれど、純季は全く堪えていないようで、無表情のまま口を開いた。
「どうも、ところで昨日の朝、朝七時半から八時の間どこにいました?」
そう問われて、伊野瀬先輩は一瞬何か考えるように視線を外したけれど、すぐに言葉の意味を理解したのか、さらに軽蔑の感情を深めたような目つきで純季のほうへ再び視線を向けた。
「なんだそれ、本当に暇なの?悪いけど、その時間はホームルームの直前だし、ずっと教室にいたよ。周りの人間にも聞いてやろうか」
どこか勝ち誇ったようにそう言って、伊野瀬先輩は隣の席の生徒に声を掛けようとした。
「そうですか、わかりました」
それより先に、純季はそう言うとあっさり引き下がった。拍子抜けしたような顔で純季を見る伊野瀬先輩に、純季は、
「ありがとうございます。もう用はないんで」
と言った。でもすぐに何かを思い出したように先輩に顔を近づけ、小声で何か囁いた。
伊野瀬先輩は純季の言葉に怪訝そうな、そして不愉快な顔を向けていたけれど、純季は構うことなく伊野瀬先輩から離れ、私の方へ目を向けた。
行こうか、そう純季が言っているのだと解釈して、私は伊野瀬先輩に背を向け歩き出した純季に付いて行った。数人の生徒が私たちの方を見ながら何か小声で話をしていたけれど、それを気にする余裕などなかった。
教室を出ようとした純季は、不意に立ち止まって、扉の側の机に座っていた生徒に声を掛けた。
「すいません」
いきなり声を掛けられ、ぼんやりスマートフォンをいじっていた女子生徒は、びくりと肩を震わせ純季の方を見た。こちらへ身体を向けた女子生徒に向かって、純季は自分のスマートフォンの画面を見せた。そこには写真のようなものが映し出されていた。澁澤新の写真だった。
「この生徒、昨日の朝ここに来てました?」
画面を女子生徒に見せながら、純季は尋ねた。女子生徒はそんな純季に圧迫感を覚えているのか、純季からほんの少し身体を離して、その写真を確認した。そして少しの間を置いて、女子生徒は、あぁ、と何か思い出したように声を上げた。
「来てた来てた、昨日の朝。ほら、あれがあった時」
直接的に言うことは避けつつ、彼女は昨日の飛び降りの件に言及した。
「その子さ、舘岡君の知り合いだったみたいで、借りてた本を返しに来たって言ってたから、机の場所を教えたんだ」
そう言って、女子生徒は自分の斜め二つほど前にある机を指で示した。
「そのすぐあとくらいに、あれがあったから・・・。だからよく覚えてる」
「そのあと、この生徒はどうしてました?」
少し身体を前のめりに突き出し、純季は女子生徒に尋ねた。
「さぁ、ごめん、慌ただしくなったから、いつの間にか居なくなってたと思う」
女子生徒は困ったように笑って、言った。
「そうですか、ありがとうございます。すいません突然」
純季は女子生徒にそう言って頭を下げた。相変わらず無表情だったのが、余計に相手を困惑させているようだった。彼はそのまま何も言わず教室を出ていき、私は慌ててそのあとを追った。
その時、昼休み終了を告げるチャイムが鳴った。廊下にいた生徒たちが我先にと教室へ戻ろうとする中を、純季はその波をかき分けるようにして彼らとは逆方向へ進んでいた。私はその後ろについて生徒たちの波をかわしながら、純季に置いて行かれまいと歩いた。
階段を降りて自分達の教室が見えてきた辺りで、純季がぽつりと、ありがとな、と言ったのが聞こえたような気がした。
「え、ごめん、何か言った?」
きちんとは聞き取れなかったので、私は思わず聞き返してしまったけれど、純季は二度同じことを言ってはくれなかった。私の聞き間違いだったらとても恥ずかしいけれど、純季は感謝の言葉を私にかけたのだと、とりあえず思い込むことにした。
「色々聞けたけど、満足した?」
私がそう声を掛けた時には、彼はすっと身体を方向転換させ、吸い込まれるように教室の中へ入っていった。私が教室へ入った時には、次の授業の準備をする生徒たちの喧騒がまだ残っていた。私と純季が一緒になって教室へ戻ってきたせいか、ちらちらと視線を向ける生徒も何人かいたけれど、私はそれを意識的に無視して自分の席に戻った。
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