第38話

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第38話

 家路についた秀治は、道すがら、呪詛のように染み付いた純季の言葉を心の奥の方に押し込めながら、祖原の鬱蒼とした木々の繁る場所で立ち止まった。まだ沙織は学校にいるのだろうか。  そういえば、秀治も沙織も互いを家に招き入れたことがなかった。秀治は自分の草臥れた貧しい生活を沙織に曝け出す勇気がなかったから、家に招くことがなかった。沙織は、なぜ招いてくれなかったのだろう。家にいつも誰かがいたから?単純に恥ずかしかったから?  木々と家々がまるで一体の生き物のように臥せる方をじっと見つめながら、そんなことを考えた。沙織が今仲良くしている後輩、あいつのことは家に上げるのだろうか。もしかしたら、もう。  雄樹を切って、沙織や俊たちを選んで、そして結局、すべてが砂時計の砂のように秀治の手元から零れ落ちていこうとしている。何故だか少し、笑えてきた。過去が秀治に復讐しようとしているのかもしれない。それほど大袈裟なものではなくとも、なにかしらの清算を求めているのは確かなように思えた。  加賀美純季、あいつが、最後の過去からの復讐なのか。相変わらず秀治の脳にまとわりつく純季の呪詛が、ずきずきと締め付けてきた。  沙織の家がある丘に背を向け、秀治は自宅の古アパートへ続く家路に戻った。荒江四つ角で信号が変わるのを待っていると、ふと、はす向かいにあるスーパーマーケットの緑の看板が目に入った。そして、買い物をして帰らないと、姉と自分の夕食を用意できないことに思い至った。  もしかしたら、吉岡さんが作ってくれているかもしれない。そんな期待を抱きつつ、そこまで迷惑をかけるわけにもいかないなと思いなおして、歩車分離信号が青に変わるのと同時に交差点を斜めに横断し、スーパーマーケットに向かった。生活保護費の振込は来週の週末になるけれど、まだ少しは余裕があるはずだ。何か甘いものでも買って帰ってやろうと、スーパーマーケットのデザートコーナーに足を向けた。 (姉貴のこと、重荷だなって思っていたけど、やっぱり放っておけないみたいだ)  買い物かごを揺らしながら、秀治はそんなことを思った。姉がこうすれば嬉しいとか、こうすれば喜ぶとか、自然と考えてしまう。親なんていないも同然で、小さい頃から唯一の家族だったのだから、切ろうにも切れない。  そう思うと、秀治は純季の要求してきたことに従うべきかどうか、迷うのがばからしくなった。  あいつは罪悪感をくすぐって自分を陥れたいのかもしれないし、事実、秀治はそれを過去からの復讐だと思って受け入れることを、頭の隅の方で考え始めていた。うまくいかないことばかりだったし、何もかも投げ出してしまうのもいいかもしれないと考えていたのだ。  でも、もしもそうしたのなら、姉はどうなるのだろう。姉弟二人きりで生きていくために、今まで必死に生活を支えてきて、そしてとうとう壊れてしまった姉を、今度は自分が支えなければならないはずだ。秀治は何かの誓いを立てるように自分にそう言い聞かせた。  純季の言っていることは、何か根拠を示して言っていることではないし、このまま無視してしまっても問題はない。  過去から手を伸ばしてくる罪悪感を振り払うのは難しいだろう。一生、自分の記憶の底で滞留し続け、時々思い出したように絡みついてくるに違いない。  でもそれならそれで、受け止めていくしかない。覚悟を決めて受け止めるとか、そこまで偉そうなことは言わないけれど、なんとか踏ん張って、そして姉を守らなければいけない。そう考えると、腹が決まったような気がした。秀治は迷いなく、真っすぐ家に向かった。  荒江四つ角の交差点から秀治のアパートまで、歩けばそれなりの距離だ。自転車を置いたまま帰路についた自分を、秀治は少し呪った。けれど仕方ない。自転車の存在を忘れるほど、異様に興奮していたのだから。  アパートが見えた時、秀治は改めて自分たちの古めかしい住処の哀れな姿を思い知らされた。何年も塗り替えられていない外壁は、乾いた塗装の剥落があまりに激しく、今や塗装されていない箇所の方が多くの面積を占めている。自転車で帰宅した時には、さっさと車庫の方へ向かうから、アパートの姿をまじまじと見つめたのは久しぶりだった。    道すがら目にするマンションや戸建て、メゾネットタイプのどれもが、この崩れかけて打ち捨てられたような集合住宅より遥かに人間らしい住処に見える。聞いた話では、ここのオーナーだった人がどこかの不動産業者にこのアパートを土地ごと売り払う予定にしているらしい。そうなったら、自分たちはここを追われることになるのだろうか。  さっきから、そんな絶望的な考えが頭のなかを幾度も旋回する。秀治の覚悟を、彼自身が試そうとしているようだった。秀治はそんなネガティブな思考を振り払うようにして自分の部屋を目指した。  一階にある自室の手前までくると、台所の窓から灯りが漏れている。姉が起きているようだ。玄関前まで来ると、秀治は鍵を鞄から取り出し、扉の鍵穴に入れて廻した。  ところが、鍵はなんの手ごたえもなくするりと右側へ倒れた。
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